近畿の100名城
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滋賀県 49 小谷城 平成22年3月11日登城 こちらから
50 彦根城 平成23年5月22日登城 こちらから
51 安土城 平成23年5月23日登城 こちらから
52 観音寺城 平成22年3月11日登城 こちらから
京都府 53 二条城 平成21年3月11日登城 こちらから
大阪府 54 大阪城 平成23年3月10日登城 こちらから
55 千早城 平成21年3月10日登城 こちらから
兵庫県 56 竹田城 平成24年12月8日登城 こちらから
57 篠山城 平成24年12月8日登城 こちらから
58 明石城 平成23年3月8日登城 こちらから
59 姫路城 平成26年1月15日登城 こちらから
60 赤穂城 平成26年1月15日登城 こちらから
奈良県 61 高取城 平成25年3月9日登城 こちらから
和歌山県 62 和歌山城 平成24年3月15日登城 こちらから

 ■49 小谷城(おだにじょう)  
   滋賀県東浅井郡湖北町
   (訪問日 平成22年3月11日)

■前夜は名古屋に泊った。今朝は名古屋8時に出て、米原で新幹線から北陸本線にのりかえ、長浜、虎姫などの魅力的な駅名の駅を通って、9時に「河毛」駅に着いた。今日の最初の目的地「小谷城」はここから登るのだ。 変な、いや、珍しい駅で、改札がない。自動改札もない。それなのに駅舎に観光案内所があって、親切に対応してくれる。小谷城は標高500Mの山城で、歩くと二時間はかかる。まして、降り積もった雪の山だ。結局、途中までタクシーを利用せざるを得ないとの結論となった。単独行の場合、歩こうと思えば歩ける距離で、タクシー利用は、モト山男としてはなぜか後ろめたいが、時間がないから、仕方がない。
 いまだ小雪ちらつく国道に「浅井三姉妹生誕の地 小谷城」の幟が何本も風に舞っている。聞けば、来年のNHK大河ドラマはこの3姉妹の末娘「江」が題名になった由で、撮影は今年の8月から始まるそうだ。なるほど、小谷城と言えば城主浅井長政とその妻で、信長の妹お市の悲劇の舞台として有名だ。お市は小谷城の落城後、敵将柴田勝家の妻となり、今度は勝家が、秀吉に滅ぼされた時共に自刃している。
 お市の3人の娘の運命は、さらに劇的だ。3姉妹は再び敵将の秀吉に引き取られて、何れも歴史に名を残す人生を送ることになる。長女「茶々」は、後の淀君である。秀吉の側室となり秀頼を生み徳川と相対する。次女は「初」。京極高次と結婚し、姉と妹の調停に力を尽くしたが及ばず、1633年64歳で没。そして、今度の大河ドラマのヒロイン、末娘「江(ごう)」は徳川秀忠と結婚。三代将軍家光を生み、天下を登り詰めた。
 登場人物は何れも天下人。これだけ壮大なドラマを誰が思いつくことができるだろう。しかも、主役達は、女性だ。最近急速に増えている歴史フアンの女性達「歴女」、いや、今は「歴ドル」と言うらしいが、彼女達の数はまた大幅に増えることだろうし、この「生誕の地小谷城」も彼女達でごった返すだろう。良い時に来たものだ。

 タクシーは、舗装はされているが心細い一車線の道をかなり登ったが、「番所跡」で車道が尽きる。尾根道を駅で貰った「案内図」を頼りに歩き出す。もっとも、山城の常で道は狭い尾根に一本だから、登りでは間違う気遣いはあまりない。「お茶屋跡」。『風雅な名だが重要な軍事施設』と説明板。しかし、この時代に「茶」の文化が既にあったのだろうか。「御馬屋敷跡」、「馬洗池」『馬関係の一画』とあるけれど、こんな狭いごつごつした急坂を馬が上り下りしたのだろうか?何の為にこんな高いところに馬を集めたのだろう?人や荷物を運ぶのに馬が必要なのはわかるけど・・。
 そして、「本丸」。[写真]歩き出した時から雪が積もっていた。が、ここ本丸では、くるぶしまで埋まるほどだ。昨日の会議の時のままのズボンも靴も恨めしげに私を見上げるが私は気にしない。広い郭では全面雪で、「私の前に道はない」なんてご機嫌な雪野原だ。さっき、現れた狐(多分)の足跡が小さく続いている。面白いことに彼(多分)は律儀に人間の歩く道を通っているようだ。その通り行くと案内板が見つかる。
良い時に来たものだ。もし、雪がなく、草が萌え、暖かい陽射しに恵まれた日だとしたら、私はあの大嫌いな、書くことさえはばかる長虫が現れるのではないかと、足がすくんでとても一人ではここまで来ることは出来ない。単独行の場合、山城は冬にしか訪問できないのだ。「大石垣跡」も雪のせいか「大」には見えなかったけどそれでいいのだ。
 いいのだけれど、いささか多すぎる雪の中、本丸を越え、「大堀切跡」、「中丸跡」、「小丸跡」と辿る。ここを秀吉軍が攻め込み、本丸との連絡を絶ったと説明されているが、この雪道を歩いてもあっという間に通ってしまう小さな郭だ。多人数の戦闘がどうも想像できない。さて、「山王丸」に着いた。そして、ここから、下る場所で足が止まった。短いけれど急斜面なのだ。ここさえ下れば、そのまま清水谷に降りられ、小谷城をほぼ一周できることが分かっているのだが、万一、ここで、足を滑らせたら・・。落ちないまでも怪我などしたら・・。私が小谷城を登っていることなど、家族をはじめ、誰も知らないのだ。行方不明になって、捜索願を出しようにもそれこそ行方不明なのだから日本中を探さねばならない。
 「勇気ある撤退が出来るようになったのも年の功だよ」と、「弱虫め」となじる自分を押さえつけて、来た道をノンビリ帰ることにした。「無理をしなかった後悔」よりも「無理をした後悔」のほうが大きいものね。

 下りは滑らぬように注意、注意。一昨年台湾の玉山の下山時に、なんでもないところで滑って庇った右手の親指が未だにうずく。年寄りは治りにくいのだ。幸い、途中で、清水谷に下りる「追手道」に入ることが出来て、無事、スタンプのある「小谷城戦国歴史資料館」に直行できた。時に11時。タクシーのお陰か、途中をハショッタせいか、予定より1時間早かった。
 この資料館には、少量ではあったが、戦いの遺物が展示されていたのは嬉しかった。
しかし、いずれの博物館・資料館でもそうだが、館員は何でも知っているような年配者が多いにも拘らず、彼等はたんなる管理人で、館の展示物について知ることは少ないと、いつも不満に思う。でも、考えてみれば、こちらも、本職をほっぽり出して、趣味の世界にうつつを抜かしているのだから、オアイコか。
 幸い、この時は、居合わせた若い先生が、展示物の説明をしてくれた。「本小札はホンコザネ、伊予札はイヨザネと読みます。何れも鎧の部品です。刀の切羽(せっぱ)は刀のツバの保護用品です。切羽つまったの語源です。戦闘の遺物はまだ、沢山発掘されているが、まだまだ未整理です。」と。
 今、歩いた各々の「丸」一つ一つに戦闘の記録が残っている。「中世戦闘考古学」、或いは「戦闘実験再現学」などがある筈と思うが、私は、なかなか知ることが出来ない。誰か、教えて欲しい。
 小谷城は1523年築城で1573年落城した。ただ一度の戦いで丁度50年の短い生涯を終えたのだ。資料館には平成4年に作成された「浅井朝倉同盟提携書」が額に入れて飾ってあった。再度、両家は提携しようという誓約書だ。
 この城を受領した秀吉は、この山城を捨て、さっさと長浜の平城に移った。現在、小谷城は戦国山城の末期の城として価値があるのだろうが、いずれの城も、築城した時代の「民」の苦労について語られることは少ない。
この資料館は写真厳禁なのでこの提携書を写真に残すことができなかった。ホームページにも提携書の記載がないので、後日、館へ「提携書」の正確なタイトルを電話で問い合わせた。その時、教えてくれた館員は「浅井」をアザイ(AZAI)と発音した。念を押したが、アザイの由で、それを知ったことでも電話をした甲斐があった。
ところが、その後、我が敬愛する司馬遼太郎師の「街道をゆく 近江散歩」をひもとくと、師は「浅井」に正確に「あざい」とルビを振られている(これは敬語の「られている」)。   それだけではない。しかも、そこには、出典も添えていられる。曰く、

「姉川の北岸の田園は、浅井町である。郡名も、(東)浅井郡であり、この地名はふるい。私どもはアサイというが、土地の人はアザイと言う。
 江戸中期、京の下加茂神社の神官で鴨祐之(かものすけゆき)という考証家があった。その著に、諸国の地誌を論証した『大八州記(おおやしまき)』というのがある。そこでは訓みが『阿座い(204個の「い」中でも出てこないムズカシイ「い」)』となっている。」

改めて司馬師の底知れぬ学識に触れる機会に恵まれて、満足だった。






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 ■50 彦根城  別名 金亀城(こんきじょう)
   滋賀県彦根市金亀町1−1
   (訪問日 平成23年5月22日)


■そろそろ休日1000円の高速料金割引の制度がなくなるという。妻によると私の運転能力も尽きかける年齢だという。今のうちにと二人で琵琶湖西海岸をドライブすることとした。
 所沢から彦根まで、「東名」を通っても、「中央高速」を使っても地図ではさして変わりはない。これまであまり走ったことがない「東名」を往路に選んだが、東名へ入る距離が計算外で、もったいない時間の使い方をしたようだった。しかもその日は雨だった。富士が見えない東名道路は全くの産業道路でドライブとしては趣がない。
 帰路に通った「中央高速」は中央アルプス、南アルプス、八ヶ岳、富士山と次々に目を楽しませてくれたが。

 所沢を出たのが9時頃で『彦根城』に着いたのは15時頃だ。静々と車を駐車場に入れ、とことこと歩き出す。
 『彦根城』は姫路・犬山・松本と並んで国宝4城の一つだ。お城の本やTV番組に必ず紹介され、資料は豊富すぎるほどある。堀・門・石垣・櫓・天守閣などが完備していて、我々はお城の教科書を読むように、夫々を丁寧に見て回る。
 お目当ての「天守閣」は垂直に近い階段を三階まで登るので、登り・下りとも観光客は難儀をして時間がかかる。妻は一階で早々に諦めて、そこで私を待つ。「西の丸三重櫓」はその点入る観光客が少なく、ゆっくりと二人で最上階まで登った。
 そこから「山崎山道」を下ると、道はおのずから「玄宮園」に入る。その池と、茶室を近景にして、遠景に天守閣を入れて写真を撮ると私の[写真]でも立派な写真になる。

 「松本城」と同じく、「国宝」指定は『彦根城』全体ではなく、『彦根城天守』なのである。他の「西の丸三重櫓」、「太鼓門櫓」、「天秤櫓」、「二の丸佐和口櫓」、「馬屋」などは、「重要文化財」の指定を受けている。「国宝」とはなにか?「重要文化財」とはなんだろう?
 先ず、「重要文化財」とは、「日本に所在する建造物、美術工芸品等の有形文化財のうち、文化史的・学術的に特に重要なものとし、「文化財保護法」に基づき政府(文部科学大臣)が指定した文化財をいう」。そして、「国宝」とは、「重要文化財のうち、製作が特に優れたもの、歴史上特に意義の深いものなど、学術的に価値の特に高いものが指定される」とある。(「ウィキペディア」)
 その所有者の義務は「国外への輸出禁止」であり、「現状変更には、文化庁の許可がいる」
 では、権利は?ウーム、それが判らない。「100名城」と同じく、「名誉」だけなのだろうか?「観光収入」だけなのだろうか?
 この「彦根城の所有者」はだれか?
 重要文化財の櫓に用意されているA4裏表に詳細な説明が印刷されているパンフレットの発行者は「彦根市教育委員会文化財部文化財課」となっている。してみると、『彦根城』の所有者は彦根市なのだろうか。

 また、この「国宝」の制度は、日本だけのものと読んだことがあったが、それは、正しいのだろうか?
 「検索」で読めた論文に今井健一朗・二神葉子共著の「諸外国における文化財の把握と輸出規制の概要」があった。それを斜めに読むと、韓国以外には「国宝」の制はなく、規制は国外流出禁止に重点が置かれているようだが。
 諸外国に駐在の経験豊かな諸兄から、ご教授を受けたいところだ。

 もう一つこの『国宝彦根城天守』で知りたいことがある。「国宝4天守」の他の3城の天守が保存される経緯は大雑把だが知ることができる。
 しかし、この『彦根城』に関してはどうもハッキリしない。明治天皇が北陸巡幸の折、同行した大隈重信が天皇に保存を願い出たとも、天皇が小休止をした福田寺で天皇のいとこにあたる寺に関係する女性が奏上したとも伝えられている由だが、どうもいずれも説得力が乏しく感じられる。
 大体、井伊藩は譜代でも最高の禄高を貰い、この『彦根城』も関が原後、大阪への押さえとして「天下普請」(自力だけでなく、幕府のお声がかりで他大名の力を提供してもらう築城)で城を作ってもらっている。
 にも拘らず、幕末には井伊直弼が幕府の方針に逆らって「開国」をし、「安政の大獄」で有能な志士を弾圧・断罪をした。井伊藩は直弼の罪がとがめられ、暗殺後、10万石を減封されると「倒幕」に藩論を転向させて、戊辰戦争ではなんと新政府側につき、近藤勇の捕縛にもあたった。
 しかし、これでよかったのだろう。天守は国宝になり藩主は伯爵になったのだ。

 我々、平和な時代の庶民は、その難しい時代の舵取りの苦労を知ることなく、城をあとにして、いささか、映画のセットめいてはいるが、「城下町の風情を失うことなく再生された本町のメインストリート、『キャッスルロード』」を散策して、今夜の宿、近江八幡へとを走らせた。

P.S. 「金亀城」という別名は「金亀山」に築城したから。    
     「金亀城」という別名を持つ城は他に「愛媛県松山城」「大分県臼杵城」がある。

 

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 ■51 安土城 
  滋賀県蒲生郡安土町下豊浦
  (訪問日 平成23年5月23日)



■昨夜は、近江八幡に宿をとったので、9時に開く『安土城』の「安土城跡受付」の前で数分を待つほど早く着いた。この城も以前に訪城したことがあるから、今回の主目的は「スタンプ」捺印の為なので、「受付」がスタンプの用意をするまで待たねばならないのだ。

 滋賀県には「城跡」が1200箇所もあるという。大きな琵琶湖を抱えた滋賀県の面積を考えると、その密度は全国屈指といえるだろう。「100名城」にも、「国宝・彦根城」や「小谷城」など日本史を飾る「全国区」の城、4城が選ばれており、レベルの高さを誇っている。
 なかでも、この『安土城』は二つの点で「日本城郭史」を学ぶ時には欠かせない「城」である。

 一つは、「天主」がはじめて主役になった「城」である。我々が、各地で城を訪ねるとき、地元の人や、時には市役所でその所在を尋ねることがある。多くの場合、問われた人達は気の毒そうに我々をみて、「「ごめんなさい。ここにはお城はありません」と答えられる。我々の目的のその地の「城」には立派な堀や石垣が残り、史実も豊富な名城なのだが、「天守閣」がないがために、地元の人も「城がない」という答えになってしまうのだ。
 そのように、一般には「城」といえば「天守閣」で、それがたとえ「復元」だろうが、「模擬」だろうがあまり問題ではないのだ。
 それほど「城」と一体化した「天守閣」なのだが、その発想を始めて思い浮かべたのが「織田信長」であり、その姿を初めて世間に見せたのがこの『安土城』なのだ。
 そして、多くの、いや、全ての武将が「天守閣」を自分の城に建て、それをもって初めて一国一城の気分に浸ることが出来た。
 
 但し、彼らの「天守閣」はたとえ秀吉、家康という最優秀の弟子をもってしても信長の「天主」とは似て非なるものだった。信長は自分を「天主」と信じることができた。人間を超越した存在だと無理なく信じていた。だから、彼はこの「天主」こそ「天主」である自分に相応しい「住い」と思いそこで寝食をすることが出来た。
しかし、その後、自分の「天守閣」に住んだ武将はいない。信長の優秀な後継者の秀吉、家康にしても「天守閣」に「権威の象徴」とか、「最後の砦」とかの言い訳じみた理由をつけて「天守閣」を築造している。「天『守』」であって、「天『主』」とまで踏み切れないのだ。

 信長は日本史に稀な「天才」なのだ。思考は順序を踏むことなく瞬間で結論を出すことが出来るのだ。歴史に残る「天才」は他にもいる。義経は騎馬戦略を苦もなく編み出したし、村田蔵六も鉄砲を自由に発想した。しかし、「天下」にまで通用する「天才」を持つ者は他には私はよく知らない人だが聖徳太子くらいではないだろうか。
この世にはこのような天才が確かに存在する。
 私は中学時代に高橋裕治というピアノの「天才」と付き合ったことがある。彼が、我が家に遊びに来て、たわむれに部屋の隅のおもちゃのピアノを弾いたことがある。すると、まるでグランドピアノを奏でたような音色が紡ぎだされ、台所にいた私の母がびっくりして飛んできたことを想い出す。数学の授業でも我々には思いもつかぬ回答案をだし、先生と熱心に議論をしていた。ある日、彼が学校の図書館で熱心になにかを写している。覗いてみると、「インデアンの紐の結び方」だった。なんでこんなものを?と問うと「「いつか役に立つかもしれないから」と無心に作業を続けていた。
 極めつけは彼が書いた「作文」だ。小・中・高と一貫教育をほこるこの我々が通った学園では、一年に一度、学園全体から優れた作文を選び「文集」を出していた。私の作文も選ばれて鼻を高くしていたが、文集に載った彼の「作文」を読んで、天狗の鼻はあっさりとへし折られた。
 彼の作品は「ある男が、Aという文字の右足と左足が喧嘩をする夢を見た。この男は印刷工場で活字を拾う植字工で、今、失業中である」という内容で、これが自分と同じ中学生の作品とはとても思えない。
 短い期間であったがこの高橋裕治と付き合ったお陰で、私はこの世に「天才」が存在することを固く信じることが出来た。
(彼を思い出したついでにパソコンを引いてみた。「高橋悠治」一人でなんと16万件がヒットした。「ウィキペディア」の紹介も丁寧で好意的なものだ。彼自身ホームページもある。しかし、いずれを読んでも彼との交際が中学で終わったのは私にとって幸せだったと思わされましたよ)

 「お城」の話に戻ろう。前述のように、信長という「天才」が創作した「天守閣」はその後全ての「城」に建てられたが、結局は無用の長物で、そこに住まわれたこともなく、そこが実戦で役に立った例もほとんどない。柴田勝家とお市の方で有名な「北の庄城」にしろ「会津鶴が城」にしろ、「天守閣」は落城の悲劇を際立たせる舞台装置にしかすぎない。

 『安土城』が城郭史上欠かせないもう一つの点は「城下町」の形成だ。「楽市楽座」で自由な経済の流通は信長の資産を膨らませ、天下統一への大きな力になったと言われている。
この政策も、信長の天才的思考からうまれたもので、後の武将も追随しようとして武将各々の個性、実力で、多様な「城下町」が形成されていった。
 安土の『城』は今ゆっくりと発掘されている。数十年前に訪城したときとそれほど変わらない静かな古城の雰囲気を楽しむことが出来た。「石垣」も徐々に復元されているようだ。「石垣」も信長が始めて本格的に城に使用したという文もあるが、古(いにしえ)の「100名城」、「大野城」「鬼の城」などの累々たる石垣を見ると、そこまで信長を担ぎ出さなくてもいいと思う。

 残念なのは、その城下町第一号の『安土』の城下町が跡形もないことだ。でも、それは仕方がない。今回の旅は少し余裕をとっているので、安土の変わりにこの近所の町・街を見て回ることとした。
 「彦根」 「彦根城訪城記」でも書いたが、いかにも「観光用」だった。きっと、本当の城下町らしいところを見落としているのだろうが。
 「近江八幡」駅前のビジネスホテルに連泊したが、この町自体はゆっくり歩けなかった。肝心の豊臣秀次が築いた「八幡城」にも登らなかったし、愛用の「メンソレ」の本家「近江兄弟社」もカットした。それでも、「日牟禮神社」にお参りをして(車の後をぶっつけたが)「八幡堀」も一回りした。
 「長浜」 流石、秀吉が作った城下町で、街並みが「線」としてでなく、「面」として残っていて楽しかった。3層5階建ての「城」はコンクリート製。
 「五個荘」城こそないが実は今回の主目的地。友人のIはこの地出身の近江商人を本家としている。彼は最近本家の家系を辿ってI家が「観音寺城」で散った六角源氏の末裔と知った。私が「武家から商人へ華麗な転身だな」と感心すると彼は「いや、没落だ」と心底なげいている。一部上場の大企業になったくせに今になっても「士農工商」の身分制度に捉われているのが面白い。今回の旅は彼から豊富な資料と情報を貰っての旅だった。
 月曜日で、「外村繁邸」他が休館で塀の節穴からしか中を見れなかったが、それでも「塚本」の屋敷をくまなく見せてもらって満足できた。
 この屋敷の近くで「なれずし」をゲット。えもいわれぬ味を一度賞味あれ。

 「関が原」 帰途は「関が原」に寄った。日本史上最大の古戦場なのに、この地を紹介する番組を、歴史好き・TV好きの私でも、これまで見たことがない。
 短い時間だったが、一望できて嬉しかった。





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 ■52 観音寺城(かんのんじ じょうー) 
  滋賀県蒲生郡安土町
  (訪問日 平成22年3月11日)


■雪の小谷城訪問後、東海道線を南へ下り、安土で下りると、正午となり、陽射しが暖かい。
 有名な「安土城」は、ここから歩いていける。今日の目的地、「観音寺城」もまた、この駅から歩いていける。二つの城は何れも100名城だ。一つの駅から徒歩でいける範囲に二つの「100名城」がある土地は他にないだろう。
 但し、「観音寺城」は「安土城」と比較して、知名度は低い。いや、日本の歴史に必ず登場する安土城と比較するまでもなく、「100名城」の中でも知名度、人気度は下から数えた方が早い城である。従って、資料も乏しい。この日は駅前の観光案内所に申し訳程度においてあったA4一枚、表に解説文、裏面に地図をコピーしたパンフレットのみが頼りであった。紹介すると、
 「近江源氏佐々木六角の本城観音寺城は、中世城郭としては全国でも最大のものですが、その構造は、郭を単純に並べて、防御性に乏しく、むしろ居住性を重視しているようにも見えます。」
 さらに、この滋賀県教育委員会事務局文化財保護課が平成16年3月に作成したパンフレットの次の一文は、他の城ではメッタに読めない内容で、はなはだ興味深いものである。
 「有事に際しては観音寺城で戦うことをせず、一旦退いて勢力の回復を待って、帰城する戦術を常としていました」
 ウーム、考えてしまいますね。戦わない城、しかも、戦闘が終わったら、また、ノコノコと帰ってくる城。これを「城」というのだろうか?

 勿論、観音寺城に関する書物やパソコンの他の資料には、残念ながら、このような愉快な紹介はない。
「ウイキペデイア」には、3度から4度の戦いの詳細が丁寧にのせられている。ただ、この城はまだ発掘調査が進んでなく、郭の数も300から1000と気の遠くなるような予想が記載されている。このパンフレットにも「現在確認されている郭の数は、正確には把握されていませんが、至るところに削平された平坦地を確認することができます」と、ある。
 とにかく、数時間で全容を知ることは出来ない城だということだけは即座に分かる。せめて、本丸そばの観音正寺でスタンプだけは押して帰ろう、時間がないので不本意ながらここでもタクシーを登れるところまで利用することにした。
 本来は、もっと上までタクシーで登れる筈が、「工事中でここまでです」と下ろされたところから、直登の石段が真直ぐにのびている。下を見るとこれでも半分以上登っていることが分かるが、この残りの石段はきつかった。午前中に、小谷城の雪道で音をあげたモト山男はもう一度オノレの年齢を実感させられた。程よい間隔でつけられている札に段々減っていく番号がつけられているので、あと幾つで0になって、この登りが終わるかがわかる。また、その札には一つずつ違う短い人生訓なども書かれている。その短い文を読むことを口実に休みながら、0に近づいていく数字に助けられ、ようやく観音正寺の境内に着いた。
 立派な寺だ。靴を脱いで大きな白檀の千手観音に参拝する。そこでお札を売るお坊さんのところに、スタンプが置いてあるからだ。身構えたにも拘らず、お坊さんは、押し付けがましいところがないので、パンフレットの代わりとして、絵葉書を購入した。以下は絵葉書の包装紙に書かれている文からの抜粋である。
 「観音正寺は聖徳太子が堂塔を建立した。守護佐々木六角氏の庇護でおおいに隆盛したが応仁・文明の乱以降、兵乱に罹ったり、守備上の障害とされ移設され、六角氏が滅んだあとは荒廃のままであった。明治期、彦根城の欅御殿を拝領して本堂とするがそれも、平成5年焼失し、平成16年新しい本堂が落慶した」
ここでも、このユニークな城をつくった六角氏の盛衰にはなはだ興味を惹かれる。同じ佐々木源氏の京極氏は江戸時代まで有力大名として(なんといっても、浅井の三姉妹の次女「初」が嫁いだ先なのだ)生き永らえた。一方の六角氏は、信長に木の葉の如く吹き飛ばされた後、子孫は何処に消えたのだろう。
 驚いたことに、この私の疑問に答えるが如く、同期の友人がこれら近江源氏の直系の後裔で、長年、一族の研究をされていることを今月の同期の情報誌で知った。
 しかも、彼は、六角氏の末裔が近江商人に転進をしたのだという、華麗な仮説まで経てている。
 いやー、なんと言う幸運!その、近江商人の一方の雄である彼から、直接、話を聞ける日を楽しみにしている。

 寺の裏手をしばらく歩くと本丸に着く。石垣に囲まれた小さな本丸だが、周りに郭が散見される。いずれも、似たようなものだし、キリがなさそうなので、「桑実寺」への道を下る。下り始めの所だけでなく、途中にもくどいほど「この道は桑実寺へ通じます。桑実寺は拝観料が必要です」の看板がたてられている。「勿論、お支払いしますよ、たかが、300円ですからね」と急なつづら折を駆け下って寺の入り口に着いて、これは、ビックリ。
 人が門をくぐると寺には相応しくない電子音のアラームがなる仕掛けになっているのだ。
 離れた場所にある受付には若い坊さん(?)が手持ち無沙汰に座っていて、愛想良く僅かな拝観料を受け取った。あの装置の償却とこの人件費を払うためにはどのくらいの入場者、失礼、拝観者が必要だろう。勿論、この春には遠いこの季節だから、この日、山道では、一人も行き逢わなかった。
 繖(きぬがさ)山桑実寺(くわのみでら)は天智天皇の勅願寺。寺名は中国から持ち帰られた桑の木がここで日本最初に養蚕技術をひろめたため。戦国時代にも全く戦火に関係なく現在の本堂(重文)は南北朝時代に建立されたまま」と、頂いた寺のパンフレットに書かれていた。
 お寺の案内ばかりで肝心のお城の案内がないのは心苦しいのだが、城は前述のように、まだ、全容を見ることが出来ないのだ。この二つの寺の歴史から、城があった時代の歴史を想像するのも一つの方法だろう。
この寺からも一般道へ出るにはかなり急な石段を下りねばならない。しかし、狭い坂道の両側に段段と立ち並ぶ家々は、まことに存在感がある。段々畑のように急峻な傾斜地に平地を作ってはそこを石垣で固めていく。その石垣が見事だった。
 なんといっても、ここは石垣技術では日本有数の穴太衆の本場だ。城や神社・仏閣だけでなく、民家でも立派な石垣を見ることが出来るのだ。

 この石垣を写真に残しそこなった。持参のデジカメの電池がなくなってしまったからだ。度々この失敗をしているが、まだ懲りてないようだ。
 時々、私の紀行文を友人に読んでもらう。彼らの反応はほぼ一致していて、「写真が入ってない。写真が欲しい」と言うのだ。確かに写真があれば、クダクダした説明が要らない場合がある。だから、今は努めてこまめに写真を撮るようにしている。それでもいまだに私の紀行文には写真が入らない。なぜでしょう。それはね、
1 私は写真が下手なのだ。一緒に同じ場所を撮ったのに友人の写真は「良く」撮れていて、私の写した情景はなんとなく見劣りがする。(言いたくはないが、妻よりも劣るのだ。)  
友人にコツを聞くと「いろいろアングルを工夫するのだ」と言う。成る程。でも、そのように努力してもまだ下手だ。ただ、私は自分の下手な理由を知っている。私には「絵心」がないのだ。幼い時から、絵は大の苦手だ。今更、上手くなる筈がないと諦めているのだ。
2 文書の中の適宜な場所に適宜な大きさの写真を入れるパソコン技術がないのだ。
ようやく、デジカメの写真をパソコンに落とし、メイルで送ることは出来るようになったが、自分の文中に自由に取り込むことがまだ出来ないのです。
3 文字ばかり写してしまう。私にとってカメラはメモ代わりだ。旅が終わると、案内板、解説文、碑文、そのようなものばかりがカメラに残っている。風景や建造物はパソコンを見ればいくらでも出てくる。城の天守閣にしても城好きな私が見たって、皆、同じようなものだ。3層4階、千鳥破風、唐破風など細かいところはどうでも良いのだ。
今回、デジカメが使えなくなったので、携帯カメラで写真を撮ってきた。ところが、使い方が未熟で、大ピンボケにしか写らなかった。でも、私にはそれでも良いのだ。ピンボケ写真でも、撮影時間ははっきり分かる。あー、これは本丸だ、撮影は14:51。そして、これが最後の民家の石垣の写真だ。時間は15:20。30分で下りきったのか。これがわかれば写真の役目は果たしたのだ。

 とにかく、写真では「今」を伝えても、「過去」を伝えることが出来ない。「歴史」を知ることが出来ない。
胸に秘めて言えないことがある。言ってしまえば、「司馬師の『街道をゆく』は、写真を全く使っていないのに、充分、読者は納得できる」ということだ。しかし、オソレオオクモ司馬師を引き合いに出すオコノ沙汰は本人が一番承知しているので、これは、誰にも言わないことだ。
 


 ■53 二条城 
  京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
  (訪問日 平成21年3月11日)


■3月11日 京都にて、「名刺台紙組合全国大会が開かれる。「全国大会」といっても、東京2社、大阪2社、名古屋1社、それに場所を設営する京都2社の親睦会。既に「名刺台紙」の製造をとっくにやめている我が社はかっこよく言えば「出席の資格はない」のだが、城訪問の好機として、また、京都の名店の食事を経験するため毎年顔を出す。

 昨夜は大阪泊。電車、地下鉄を乗り継いで「二条城」。
10時。既に大勢の観光客。東大手門より入場料を払い真直ぐに入り口傍のスタンプへ。手帖に予備まで押して、関係のないおばさんに百名城スタンプを得々と説明し城見物をしていたら、途中でその手帖を無くしたことに気付く。ダイアリーを兼ねた手帖の喪失はその間の私の人生が失われたに等しく、意気消沈。帰途、念のため押し場に戻ったら、アリマシタ!

 唐門から入り直し国宝二の丸御殿見学。本丸へ。その西南の天主台の石垣はいかにもここは「城」だぞと存在感充分。

 二条城が歴史上輝くのは、大政奉還の舞台となっていることだ。徳川家所有だったこの城は、その後、明治元年に朝廷に帰し、同4年京都府へ、同17年宮内庁へ所管が移って「二条離宮」と改称された。更に、昭和14年京都市に下賜された。従って今の正式名称は「恩賜元離宮二条城」という。徳川氏が建てたのに「恩賜」とは・・。

 教科書では794年の遷都から1192年、鎌倉に幕府が出来るまでの4百年を平安時代という。末期に武士や僧侶が京都を戦乱に巻き込むがそれまでの400年は日本史でも珍しい「平安」の時代ではなかったか。徳川の泰平の世というがそれでも300年だ。この平和な「平安時代」をもっと評価してよいと思うが。

 京都は都だ。しかし、「城」がない。この二条城も京都を防衛する為の城ではない。
だから、京都は城下町でもない。鎌倉、室町と京都は飽く事がなく戦火に見舞われている。その度に復興するからまた火を放たれる。そして、千年の間、都であり続けた。「城」もなく。こんな例は外国にあるだろうか。



 ■54 大阪城
  旧名『大坂城』(秀吉時代)
  大阪市中央区大阪城1−1
  (訪問日 平成23年3月10日)

■岡山から大阪へ。この『大阪城』で、明石城、鬼の城、備中松山城、岡山城と、三日間5城の「100名城」探訪旅行はひとまず終わりだ。スタンプ集めには効率的だが、各城の見方が通り一遍になるのは致し方ない。しかし、一度見ておけば、今後、その城に対する情報がすんなりと頭に入るので、これで良いのだと割り切る他はない。

 話はずれるが、大阪という都市を私は全く知らない。私の最大の同業者が、この地で頑張っているので、仕事では足を踏み入れる余地がなかったからだ。「新大阪」から、「大阪」そして、城への最寄り駅「大阪城公園」に着くまでも各乗換駅でマゴマゴして、未知の土地を訪ねる楽しみが味わえた。
 駅から城は近い。その僅かな間でも、「水中遊覧バス」の呼び込みがあって、あー、大阪は「水の都」だったな、今度は乗ろうなどと思ったりする。
 堂々たる「青屋門」から入る。工事中の「極楽橋」を渡り、「秀頼・淀殿自刃の地」を見る。徳川の大砲の音に脅えきった彼らの悲劇を、司馬師が例によって立ち会った如く活写している。「刻印石広場」に出る。家康は大阪城修築を全国の大名に割り当てた。各大名が自分の持ち場でのみ使うため、自藩の目印を刻印した石を集めた広場だ。その藩の多さに改めて、天下をとった徳川の力を感じる。
 少し行くと「大阪城・上田城友好城郭提携の記念碑」がある。この碑は平成18年10月に各々の城管理者である市長が姓名なしで、「市長」として提携宣言。平成20年に建てられた。昔から言われているように、大阪の人は、この城はどうあっても「太閤の城」であって欲しいのだ。現存する大阪城が、秀吉の巨城・大坂城の上をさらにスッポリと覆った城であることが、証明されたのは最近と言って良いだろう。秀吉の城の旧跡を見たいと思うが、まだ発掘中だし、とにかく、今の城を見てからの話だ。
 
 ようやく、天守閣に着く。江戸城に匹敵する大きさをもつという大阪城。江戸城と大きさを比較するのは現代では難しいが、少なくともこの巨大な天守閣は今の江戸城にはない。   
 昭和6年に建てられたこの天守閣はコンクリート造り、エレベーター付きの復興天守閣だが、すでに「国指定登録文化財」となっている。既に建築後80年も経っているのに、最近建ったかのように、綺麗に使われ、展示も最新の技術を駆使した動く画像などを多用して実にわかりやすい。「博物館」としてじっくり見ると、一日ではとても、足りない内容だ。
 特に、私が肥前名護屋城以来凝っている「屏風絵」の細部を丁寧に拡大・説明してくれる画面を見ていると時を忘れる。エイヤッと、重い「大阪夏の陣図屏風」本を購入して持ち帰る。この絵図では男性はどうみても裸足だ。さて、履物は?屋内に上がる時は足を拭うのか?

 下城して、蛸石、大手見付石、などを見て、大手門を出る。
 ここからは「森の宮駅」が近そうだが、我慢して南外堀を巡って歩く。「蓮如上人笹懸けの松」の碑をみる。秀吉の城でさえ発掘途中なのだから、大阪城の礎を築いたにしても、蓮如の城の遺跡は見ることは出来ぬだろうとあきらめていた。しかし、「大阪城天守閣」の案内パンフレットを見ると、その7階に「石山本願寺の時代」が展示されていることが判る。この「OSAKA CASTLE MUSEUM」(このパンフレットの英文タイトル)はたいしたものだ。

 発掘中の秀吉の城から「障子堀」が出てきたことを私はどこかで読んだ。障子堀とは、空堀の底辺に、敵が渡りにくくする為格子状の凹凸をつけた堀だ。静岡県の「100名城」「山中城」の障子堀が有名だ。山中城を訪城した際、障子堀が他で使われてないことに疑問を持ったが、それは埋もれているからで、矢張り、障子堀は当時の流行だったのかと再認識をした。
大阪城を支えた真田丸も見たかったが、勿論、あきらめる。

 大阪城は、城代はいても、城主はいない。幕末に最後の将軍、従って最後の城主の徳川慶喜が悩みに悩んだ場所として、司馬師の作品にいく度も登場する。それらを読み返した時、今度は今までよりもっと頭に入ってくるだろう。

今日中に帰宅せねばならない。カメラの電池もなくなった。新幹線で一路家路へ。



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 ■55 千早城 
  大阪府南河内郡千早赤阪村千早
  (訪問日 平成21年3月10日)


■「『あわよくば』の語源」
 6時に家を出て、新幹線で新大阪。地下鉄御堂筋線、近鉄を乗り継ぎ、富田林に11時。
あわよくば、寺内町の見学をと、目論んだら、寺内町は駅前。1時間に一本のバスの時間まで50分。うまく駆け足で見学できた。「あわよくば」の「あわ」とは、時間の「間」の由。あわがよかったら、なんと言うのだろう?「間がよかった」、「タイミングよく」と言うのだろう。中世から続く富田林寺内町の町割と旧家を楽しめる50分だった。
「まつまさ」
 百名城巡りは、各城のスタンプ集めの旅だ。大概のスタンプは城の管理事務所で押すが、この山城にそんなものは、ない。ここのスタンプは珍しく城下の食堂「まつまさ」にある。昼食をここでとらざるを得ないが、老舗の豆腐屋さんで、スタンプ客目当てのもの欲しさがなく、感じがよかった。近所に人家もなく、スタンプは店の客寄せ用でなく、城フアンが置かせて貰っているという感じだ。
 「千早城と考古学」
 平日、肌寒い早春の日でも、金剛山へのハイカーが多い。若い人も多く、急坂をあっという間に追い抜いていく。途中でハイカーの道から右へそれると、そこが本丸、千早神社。    本来は下から登るべき城を、二の丸、三の丸と上から下りてしまった。その階段の急なこと!人影は全くなく、城訪問というより、単独登山の下山という感じで、事故を起さぬように、慎重に慎重に下りる。努めて写真を撮るが急傾斜を写真で見せるのは難しい。
 「千早城」は誰でも名を知っている全国区の城だ。しかし、実際に訊ね来るマニアは数少ない。百名城の中でも訪城者数ワーストテンに入るのではないだろうか。「交通不便」、「急峻な地形」などの他に、「遺構の少なさ」も不人気の大きな理由になるのではないか。
 足下にばかり注意していたので、大きなことは言えないが、何処に百人、千人が篭城するのに充分な武器、食糧、水を準備したのか?何処に二重の塀を建てたのか?寄せ手の大梯子は何処にかけられたのか?谷を埋め尽くす夥しい戦死者の遺骨は消えてなくなるにしても刀や、鎧の端切れは残っていないのか?数千年前の石器だって、住居跡だって発掘されるのだ。発掘しないのか?戦いは「太平記」の中だけなのか?いや、発掘されていたら、何処に保存・展示されているのか?
 今、村の教育委員会に電話。「あの城は楠公以後も使われていて、その時代と思われる土器は出てくるが、千早城攻防戦の実証を目的にした発掘は行なわれたことはない。今後の予定もない。」と。
 矢張り、百名城の一つで大戦闘の記録がある「八王子城」でも同じ疑問を持ったが、八王子城は発掘・整備が進んでいるようだ。千早城への疑問が私の不勉強のためとわかる日を楽しみにしよう。
 本丸や二の丸の各広場にブリキや厚紙で作られた武者人形が、ある。これが正成の「藁人形」の後継者と解ったのものも、暫くしてからだから。 
「村立郷土資料館」
 さて、駆け下りてみたもののまだ2時。今日は大阪で泊るだけだ。行きがけの駄賃、無駄でももともと、恐らく二度と来ない場所だ、しかも20分もすればバスが来る、この案内図の赤坂城に行ってみよう。さて、下赤坂城にするか、上赤坂城にするか?こういう時こそ「郷土資料館」。とバスの下車駅も決まり、バス停から登り道10分。「資料館」を訪ねる。入り口横の「楠公誕生地」の碑が立派だ。「下赤坂城は碑のみ。上赤坂城はこう行って、あー行って。往復2時間見れば充分です。」の案内を受けて歩き出す。裕福そうな家並みだ。瓦屋根に白いアクセントをつけたり、出窓の意匠が凝っていたり。このような個人の家を私は写す権利があるのだろうか・・。
 「赤坂城」
 一の木戸、二の木戸、そろばん橋。茶碗原は台所跡という。ならば、井戸があったのか?これは井戸か?そして、本丸に立ったて、はるか、大阪湾まで見渡して、ここを埋め尽くしたであろう雲霞の大群を想像した時、久しぶりにささやかな満足感を得た。楠公の気分になったからではない。予定外の、望外の見学が出来たことと、それが出来る、自分の体力に満足したのだ。この山城も結構きつかったんですよ。
「太平記」
 千早城を知るためには「太平記」は必読の書だ。取り敢えず高村誠の本に拠った。戦争、戦争、また戦争。それでも食糧は何処からか湧いてくる。武器・鎧も誰が供給したのだろう。そして、千早城での激戦の遺物はどこにあるのだろう。後日、前述の郷土資料館に電話で問い合わせたが「出土品なし。発掘の予定なし」と。桑田「日本の合戦」を紐解くが合戦の様は「太平記」の丸ごと引用で、実証はおろか、現地に行ったことも疑わしい。あー、嘆かわしい。

あとで追加するべき事柄(不要)

 「水分神社と一日一本のバス」
 楠木正成と司馬遼太郎
 四天王寺、藤井寺、なんば、心斎橋
 千早城と城郭史(「百名城」の中で) 


 ■56 竹田城 
  兵庫県朝来市和田山竹田字古城山169
  (訪問日 平成23年12月8日)

** 人気の花が咲いた竹田城。 城にも旬の時がある 
 この城はスターが揃う百名城の中では地味な城である。第一、歴史に登場しない。次に竹田という地名に馴染みがなく、どうやって行ってよいかわからない。隣のこれも百名城がある篠山の方が、デカンショ節なんかで有名で、篠山城へ行くついでに行くしかないけど、篠山城自体行きにくく、それで後回しになってきていた。
 ところが、最近、この城が脚光を浴び、有名城の一角を占めるようになったのだから、城にも人間と同様、花が咲く時期があると感じられて面白い。
 先ず、「あなたへ」という映画の舞台になった。高倉健主演だからこの映画で竹田城のフアンになった人が多かった。そして、霧に浮かぶ城の絶景が、「日本のマチュチュピ」と名付けられ人気になった。かっては映画「天と地と」のロケ地となり、さらに今度はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」もこの城でロケをするとかで、今も、この城の人気はうなぎのぼりである。

竹田城訪城を最高のパートナーと
 この人気の城をYさんの尽力で、ベストの方法で訪城出来た。まず東京からYさんのキャンピングカーに同乗する。夕方出発して、深夜、竹田城の対岸の山麓の駐車場で仮眠。早朝、山に登り、多数のカメラマン・カメラウーマンと一緒に、ご来光、ならぬ霧の発生を待つ。
残念ながら好天すぎてキリは発生せず、遠く望む竹田城に天空の城の雰囲気は味わえなかったが、それでも皆満足して下山した。
 さて、Yさん。山男にしてカメラマン。全国の名所旧跡を本人が名づけた「家出車」に所帯道具と寝袋を積み込み、時には友人と、時には奥さんと、時には両方を乗せて走りに走る。千曲を数える自分で作った音楽テープから自由に選曲して流すから、深夜のドライブも楽しみの座となる。地酒はもとより納豆・あぶらげ・野菜・お豆腐。各地の道の駅の特産品を素早く買い込んで、夜は星空の下、手料理で晩餐会を主催する。
 この城を皮切りに、これから日本各地の城や祭り見物に、文字通り「便乗」させてもらっている。各地で人気の車を紹介しよう。

**
この車で、このような場所で停まり、泊まるのデス。
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 あー、肝心なことを書いてない。Yさんは、友人の紹介でわのホームページを作ってくれている人だ。私のホームページに唯一リンクしている人だから、詳しくは彼の華麗なホームページを訪ねてほしい。尚、この城の写真はYさんこと山崎さんの提供によります。
 私のホームページに来てくれた友人はその出来栄えのスマートさ・読みやすさを口を揃えてほめる。その製作者がYさんなのである。

竹田城に登る
 といっても、竹田城は車なら簡単に登れる。広くてしかも無料の駐車場から石垣で囲まれた城まで、歩いて直ぐだ。城がどこからも見ることが出来るということは、城からはどこまでも見通せて、眺めは抜群だ。但し、この絶壁の上に立った城には周りに柵がない。奇しくも、同名の九州は豊後竹田の竹田城と同じだ。スパッと切れた石垣の先端から落ちたら、数十メートルの下まで一直線に落ちて行くしかない。「落ちるのは自己責任」と二つの竹田城は無言で我々に警告している。
 その危険な石垣の縁を、Yさんは良いアングルを求めて縦横に歩き回る。こちらは冷や冷やして城見物どころではなかった。

 それから、丁度一年たってこの文章を書くにあたってパソコンを見ると、ブームのニュースは知ってはいたが、様変わりになっているようだ。観光客は一年で20倍。その対応に費用が掛かり、駐車場では300円の料金を取るようになった。また、山頂の石垣の縁には客の落下防止のためロープが張り巡らされているようだ。
 たった一年での変わりように、あの危険な石垣の縁がむしろ懐かしい。

観光都市・朝来市 表米神社
 竹田城がブームになったのは、偶然ではなく、それまでの朝来市の地道な努力が実を結んだと思っている。写真に見るように橋ひとつにも神経を使っている。
 スタンプが置いてある駅前の案内センターの展示物も充実している。神谷武雄氏作成の模型も素晴らしいし、年表も山名氏や赤松氏だのというややこしい氏族とか太田垣氏なんという聞いたこともない氏族、そして、秀吉・秀長というスターが生野銀山支配という派手な話題で登場させて、読む者の想像力を刺激する。
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 朝来市にはもう一つ魅力的な観光資源がある。駅からも近い、表米神社だ。土俵と桟敷が残る神社は珍しいだろう。ウイキペディアをそのまま下記コピーする。
 『丹後国にある白井の浜に来襲した新羅の賊を討伐した武人である表米宿禰命]を祀り上げているこの神社は、表米宿禰命の格技を好んだとされるという言い伝えに基づいて、神社境内内の参道横に設けられた小広場に相撲桟敷が拵えられているのが特徴である。この相撲座敷の形状を半円形石積段型桟敷というのであるが、このような形の相撲桟敷はこの神社の他には、長門国の赤崎神社にしか存在しておらず、そのような事から歴史的な価値があるとされており、兵庫県の指定重要有形民俗文化財として登録されている。また、桟敷から見て、土俵を挟んだ向こう正面側には、舞台もあり、能や歌舞伎なども演じられた可能性があると考えられている』
朝来市は橋の欄干ひとつにも神経を使って観光客誘致をしている健気な市だ。遠景は勿論、竹田城址。 怖くて、この位置にしか立てない。 二の丸から、本丸をのぞむ。
Yさんは平気で城壁の突端まで行って写真を撮る。
表米神社 表米神社の土俵と観覧席 表米神社の舞台
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▼山崎さんコーナー
竹田城址 天守跡
標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の眼下に竹田の町並み
穴太積みの石垣 立雲峡からの竹田城展望

竹田の円山川に
かかる橋
竹田には立派な
屋根の家が多い。
恵比寿さんの
鬼瓦を多くみかける。
竹田城跡の麓の
表米神社
武人表米宿彌命
を祀る
相撲桟敷は兵庫県文化財 町から少し登った
場所にある




 ■57 篠山城 
  兵庫県篠山市北新町2-3
  (訪問日 平成23年12月8日)

**

ロスチャイルド家と篠山城
 少し昔は竹田の地名を知らぬ人が多く、一方、篠山と云えば「デカンショ節」と結びついて、知らぬ人はいないほど知名度は高かった。しかし、今は、立場は逆転し、竹田は話題豊富で多くの人を集める一方、竹田城を登城してから寄った篠山城は、静かで地味な城となっている。
 だが、今の私にとって、篠山市は一度は訪れたい聖地なのだ。何故か。ユダヤやユダヤ人について多数の日本人を啓蒙した宇野正美氏の転居先であるからだ。
 宇野正美氏の「ユダヤが解ると世界が見えてくる」(1986/5)は100万部以上を売り上げたベストセラーになっているから宇野氏の名前を知る人は多いと思う。私もこの本で世界史の裏の本当の実力者の存在を知った。すべてをユダヤ系の財閥であるロスチャイルドやロックフェラーの「陰謀」と断じる宇野氏の著作を一笑に付す読者も勿論多いに違いない。
 しかし、日本が対ロシアに戦端を開いた時、軍資金をロスチャイルド系銀行家のジェイコブ・シェフに頼ったことは教科書にも載っている。裏社会がチラと表に出た話だが、ほとんどの人はこの事実の意味を考えない。
 宇野氏は1989年、本拠地をここ篠山に移し(株)リバティ情報研究所を創設した。私は世界的裏社会からの圧力だと思う。しかし、現在の宇野氏の篠山からの情報の発信は目覚ましいものがある。私は月刊誌「エノク」の定期購読者であるが、あらためて、パソコンを紐解くと、ウイキペディアでの宇野氏の紹介は古代史・近世史・現代から近未来の歴史。キリスト教・ユダヤ教。ユダヤ人の民俗学・日本との関連。その他その他の活躍ぶりを詳述して、読みでがある。また、YOU・TUBEでは講演会の録画も豊富で、アクセス数も結構な数だ。
 いや、失礼。ここは、篠山城の紹介だった。宇野氏の紹介はこれで終わる。

消えたワイカと篠山城
 大体、「放歌放吟」をする機会が無くなった。昔、といっても私の学生時代だから少なくとも約60年前には、例えば学生の新人歓迎コンパとか、職場の忘年会では、「同期の桜」なんかを定番に、料理屋で参加者全員での大合唱で打ち上げになったものだ。
 山の世界でも、行動が出来ない雨の日はテントの中で、一日歌集片手に山の唄を歌っていたものだ。「娘さんよく聞けよー、山男にゃ惚れるなよ」の唄はハイキング程度の山男の定番になっていた。
 今では。、山は山小屋泊まりが一般的になり、また、テントを担いで登る学生の山岳部員も希少な存在になった。山ギャルが謳歌する山の世界では、先輩から受け継いでゆく、
「ワイカ(猥歌)」が消えてゆくのも致しないのか。
 丹波篠山といえば「デカンショ節」だ。3人の有名な哲学者、デカルト・カント・ショペンハウエルの頭文字からつくられたというこの民謡(?)は、学生たちの宴会にはつきものだった。そして、歌がカラオケルームに舞台を移した現代では影が薄くなって、篠山の地名も馴染みが少なくなったのだ・・ろう。
 いや、失礼。ここは、篠山城の紹介だった。デカンショ節の紹介はこれで終わる。

転職と篠山城
 篠山城で写した写真がどこかに消えた。竹田城からY氏の車で二時間。篠山城は平城で、一回りするのに時間はかからなかった。だから、写真に惜しいものはないが、復元した「大書院」の展示物の案内板に、藩主交代時のマニュアルのようなものがあってそれをカメラに収めた記憶はある。それは、今でも探し出して、読んでみたい。
その写真が出てきた!「大名と国替え」を是非、御一読を
 頻繁に繰り返された、藩主の交替。そこで演じられるドラマ、トラブル。でも、それは、江戸時代の幕藩体制に限らない。新任の守護・地頭の任命。さらに遡って、国司の交替にも。そして逆に現代に目を転じれば、大会社の人事異動。
大会社を7年で辞めた私には、人事異動の転勤の経験はない。が、転職の経験がある。一回だけだけど。
いや、失礼。ここは、篠山城の紹介だった。転職の紹介もこれで終わろう。
  
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篠山城全景
典型的な平山城だから、堀に凝ってはいる。が、実戦向きではないね。藤堂高虎の縄張りだが、徳川政権樹立後の「天下普請」として築城された、大阪への「牽制」の城の印象。 復元された大書院は立派だ。さらに、この内部の展示と説明文は、百名城中、白眉。とても、参考になった
本文で触れた「大名と国替え」ありそうで、ない、滅多にお目にかからない具体的資料。 城の御殿の再現。



 ■58 明石城
  別名  喜春城 錦江城 鶴の城 
  兵庫県明石市明石公園1−27
  (訪問日 平成23年3月8日)


■「この男は、キャディーさんを2度驚かす。」Dは仲間内のゴルフ会で必ずこう云って私を皆に紹介する。「最初は持っているクラブの立派さで、驚かす。2度目はゴルフの下手さで驚かす」と。当たっている部分もあるので、「Dよ、陰口というものは、本人の居ないところで言うものだ」と、その度に、私は弱々しく抗議をしていた。
 大学で同期だったDは優秀な男だった。さっさと上場企業のトップに登りつめたが、あっという間に脳梗塞で不帰の人となってしまった。会社は社葬をもって彼の功績を偲んだが、私は仲間内のカラオケの時門倉有希の「J」を「D」と置き換えて歌い、彼を追悼している。“D、急ぎすぎた貴方の人生。D、今よりも永遠(とわ)を選んだ。”この歌詞に、彼を知る皆もうっすらと涙してひとしきり、彼の思い出を語り合うのだ。

 何故ここでDの話を思い出したのか。明石城には「2度驚かされた」からだ。
最初は、その美しさにだ。長い白壁が両端の巽櫓と坤(ひつじさる)櫓を結んでいるこの城を、明石駅に降りるまでもなく、JRの車窓から見ることが出来る。流石に誰が選ぶ「100名城」の中にも選ばれている名城と納得して、城へ、向った。
 白鳥が遊ぶ幅の広いお堀を渡り、広々とした石段で本丸に登り、柿本人麻呂の「人丸塚」を経て、国の重要文化財である前述の二つの櫓を覗いて、ようやく天守が建たなかった天守台に辿りついたころ、なにか、違和感を感じ始めた。

 私は、どの城に行っても、そこに立つ案内板を手当たり次第にデジカメに収めてくる。常に時間との戦いで城を探訪している私は、案内板をメモする時間はおろか、読む時間さえ勿体なく、帰ってパソコンに入れてから明るくしたり拡大をしたりして勉強するからだ。 ところが、この城にはその案内板がない。いや、ある。あるのだが、書いてあることは、城の説明ではないのだ。その文面に「2度目に驚かされた」のだ。
 写真をアップしてよんでみよう。 
「注意事項 一般公開は文化財保護のため雨天中止(小雨含む)させていただきます。構内は土足厳禁とし、傘等のとがった物及び大きな荷物の持ち込みはお断りいたします。云々。
財団法人 兵庫県園芸・公園協会」
「明石城は平成16年に国の史跡を受け、歴史の風情のある明石公園つくりに皆様のご協力をいただくため、この付近から犬のフン等を、石垣の下に投げ込まないよう、よろしくお願い致します  財 兵庫県園芸・公園協会」
 「さくら  広さが一番大きい」
 「おねがい 他の公園利用者が気持ちよく公園を利用されるため 犬のフンは各自でお持ち帰り下さい 何卒よろしくお願い致します。(財)兵庫県園芸・公園協会」

 この種の城に関係ない案内板の多さが明石城で二度目に驚かされたことだ。
今、日本では、お城のブームが周期的に起こる。この「100名城スタンプラリー」も一つの原因になっているのだろう。各地で私が城探訪を始めた昭和40年前後は折からの列島改造時代の真っ只中で、幾度に名城の数々が、新幹線の駅の下、都市開発のビルの下に埋もれていった時代だった。それが、今、スタンプ帳を手に持って廻ってみると、各地で真新しい城郭が再建されている。
それが、この「城」は、「公園」のままなのだ。そして、この公園で一番大事なことは「犬のフン」の後始末らしい。犬のフンをわざわざ石垣の下に投げ込まないように注意された明石市民は怒るべきだと思うのだが・・。

 明石城は、3年(1617)小笠原忠真が、幕府の命で、岳父である姫路城主本多忠政の助けを借りて一年で築城した。平和な時代になっての築城なので、その後、歴史に登場することはなく、私には馴染みの薄い城だ。こんな城が「100名城」の中にあってもよいか。

 しかし、「明石」といえば城フアンの私でも、城よりも、「源氏物語・明石の巻」を思い起こす。私は、「明石君」の父親に興味がある。彼は失意の光源氏を明石に迎えた時、勇躍、そのひとりむすめを差し出した。この父親、明石入道は「任終わっても帰京せず、国衙の地(姫路市の東部)からはなれ、播州平野を後背にひかえ船津の便にめぐまれた明石の海岸を占めとっていた。」(秋山 著『源氏物語』岩浪新書)そして、「いまはおちぶれた播磨前司の身を、光源氏と結ばれることによって名門の血筋を回復する幸運のいとぐちをつかんでいった」(同上書)
「源氏物語」は国文科の女子大生に任せず、歴史・経済史の研究資料として読み込まれてしかるべきだと・・。私が、「源氏物語」、ではなくて、その解説書を読み出したきっかけは、「天皇の城」である「御所」を知りたかったからだった。連綿と続く天皇家は「城」をもたなかった。794年の平安遷都以来、明治維新まで住み続けた京都の御所は、堀もなく石垣もない無防備な住まいで、事実、幾たびも戦火に遭い、そのたびに天皇は右往左往しているが、再びこの危険な「御所」に帰っている。本当に日本の天皇制・天皇家とは、世界に誇るべき不思議現象だ。当面、「明石城」には関係がないけれど・・。

 明石城を出る時、カメラの電池がなくなった。駅商店街の電気屋ではそんな電池がここにある筈がないとスゲなく断られた。最後まで、明石は私と相性がわるかった。


 


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 ■59 姫路城 
  兵庫県姫路市本町68
  (訪問日 平成26年1月15日)

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日本名城番付表
 「日本で一番良かったお城はどこでしたか?」と時々訊かれる。「番付表を作ってみました。東の横綱は熊本城で、西の横綱は姫路城です」と答えている。城は本来防備の為なのだから西南の役で難攻不落を証明した熊本城を東の正横綱にすえることは当然だ。
 世の中が静まって、城の役割は防備から権威の象徴になっていく。その時に建てられたのが姫路城で西の正横綱どころか世界遺産にまでなっている。
 姫路城は外観の美しさもさることながら、内部の居住区を完全に残しているところにこの城の価値があると私は思っている。
 千姫が暮らした部屋など、スタンプラリーが始まる数十年前に見たにもかかわらず印象に強く残っている。残念ながらその狭さも印象的だ。勿論、我が家に比べれば広い。しかい、ヴェルサイユその他の西欧の皇帝の居住区の広さを思い浮かべると、平和ではあるけれど貧しい当時の日本に同情の念を覚えるのだ。番付表の話から外れるが、ついでだ。
泉鏡花の「天守物語」を先日歌舞伎座で観た。「高野聖」より説得力ある奇妙さが玉三郎・海老蔵の美しさと相まって歌舞伎の醍醐味を味わった!当然、この主役の天守は姫路城なのだ。世界遺産などになる前の本当の姫路城が残された見事な舞台を皆さん見てください。 
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修理中の姫路城
 今回訪城した時は姫路城は平成の大修理の終了間近の時だった。既に見学のための入場可能時間も過ぎ、城内からは見物客が続々と吐き出されている時間であった。
 完成前のスカイツリーも人気があった。完成後のスカイツリーはいつでも見えるが、建築中の途中経過はこの時しか見ることが出来ないという理屈からだ。成程。完成後の姫路城を生きている間に見ることが出来るだろうか?出来るに決まっている。こう書いていていつか必ず見に行こうという気になった。私の今のトシ77歳
喫煙所
 そのはるか昔の第一回姫路城訪城時、まだ、喫煙者が大手を振って歩けた時代、姫路城はあの広い庭でも禁煙であった。城内は勿論で、どこかにあるべき「喫煙所」が全くなかったことに感銘を受けて帰ったことを覚えている。
 あれから、数十年。今は、喫煙者は犯罪人扱いで、「禁煙」のお札はどこまでも追いかけてくる。それなのにかって時代よりはるかに進んで喫煙者に注意を促したこの城が、城の出口の目と鼻の先に喫煙城を設けている。その喫煙所を写真に撮って皮肉ったつもりだが通じたか。



 ■60 赤穂城 
  兵庫県赤穂市上仮谷
  (訪問日 平成26年1月15日)

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■城はそもそもは戦闘の為に作られる施設だから、敵が攻めて来たときには大いに活躍する。しかし、平和な時代にどう使われたか?小説・映画にはなかなか主役として登場はしない。なかで、この赤穂城は大事な場面に必ず登場して、城の役割を我々に納得させてくれる。ご存知「忠臣蔵」で城主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は江戸城で切腹の知らせに藩士一同が城の大広間に馳せ参じて大評定を行う場面である。最終的に討ち入りまで残る藩士が47名居るのだから、最初のこの会合に参加した赤穂藩藩士は百名以上が集まったに違いない。この人数が集まれる部屋がここ本丸御殿に会ったのだろうか?
 もう一度「忠臣蔵」の映画を見てみたいが、現在、本丸に建物はないが、往時の建物の間取りを原寸で地面に再現してある。(写真参照)

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※それぞれ写真をクリックすると
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間取りの案内をしてくれた作業員の方。
トイレの位置は、彼以外知らなかったのだ。
間取りの外のトイレ の、由。 赤穂城はまだまだ広い

 ここに立つと広くない。何人がここに入れただろうと疑問に思う。
 もう一つつまらない疑問だが、この藩士たちが広間に集まる時、家から履いてきた「履物」はどこに収納するのだろうか?各々が草履取りを従えていて、彼らに預けるのだろうか?この地上の復元図では玄関・式台はあるが下駄箱はないのだ。

■さて、次の疑問だ。このような非常時はともかく、平時にサムライたちは城でなにをして日を送っていたのだろう。そんなに事務の仕事があったのだろうか?個人の武技の修練はしても団体の戦闘の訓練はしなかったのだろうか?
 「武士の家計簿」の武士の仕事は解る。しかし、藤田まこと演ずるムコドノ必殺仕事人「中村主水」は昼間、お城の職場では上司から叱られてばかりいるが、どんな仕事をしていたのだろう?藤沢周平の武士たちは城外で派閥争いばかりしているが日々城内ではなにをしているのだろうか?
 もっとも、我々サラリーマンも、子供に「なにをしているの?」と訊かれて、説明できる人は幸せであるが。

 水城としての赤穂城も。(写真参照)
 この城もまた約40年ぶりの再訪だ。城が全く見違えるほど復元されていて違う城に来たみたいだ。この地では忠臣蔵・赤穂城が立派にメインの産業となっている。観光でメシを食っていかざるを得ないという、今の日本の時代の先端を切っていると感じ入る。
 だから、この城で海城に会えたのだ。三原・徳島など日本を代表する海城は、高度成長の時代の要請に合わせ次々に潰されていったが、ここ赤穂城ではその再現が試みられているのだ。写真()では伝えられないのが歯がゆいが、数年後にはもっとわかり易く復元されるかもしれない。
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ここに海水が引き込まれ
荷がおろされた
海城だ!という説明。 観光の目玉にも拘らず
城の入場料はとらないス
百名城のスタンプも簡素な扱い
で好感が持てる
天守台はあるが天守閣は
もともとなかった
堂々たる復元振り 読めれば読んでください


 ■61 高取城 
  奈良県高市郡高取町高取
  (訪問日 平成25年3月9日)


            ※写真・yamachan

●他のところでも書いたかもしれないが、日本をよく知るアメリカ人から「貴兄は日本の全ての都道府県に一泊したか?」と訊かれてウームと即答できなかったことがある。
 「泊まってない県」の候補に真っ先に奈良県が浮かんだ。しかし、流石に古墳と飛鳥の史跡を訪ねた「古代史」のツアーでは、ツアーリーダーが神社と認めず、したがって見学の予定に入っていない樫原神宮を、早朝、独りで駆け足で往復した記憶がある。つまり、その時のホテルは橿原神宮の目の前だったらしいので、少なくとも一泊はしたのだ。
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▼この井戸です
奈良県は古代の史跡は豊富だが、城跡は少ない。当然、百名城の中にもこの城しか入っていない。さらに、この城について私はあまりにも知らない。
 この高取町もパソコンで読めば、飛鳥の南に接しているだけあって、渡来人の遺跡が多く、薬も伝統産業だし興味深い町のようだ。現に、城からおりて町を歩いてみれば、今回も同行してくれた山崎さんの写真にあるように土佐通りでの「街中ひな祭り」の展示など、歴史の深さを感じることが出来る。また、この「土佐」の地名は「6世紀、大和 朝廷の労役で土佐の国からここに召しだされたものの、任務が終わっても帰郷でき なかった者が住み着いたことからこの名前になった」とパソコンの有識者が書いていた。
 かって浪曲の定番として名高い(そして、今は知る人も少ない)「壺坂霊験記」の舞台もここだし、古代から掘り起こせば面白い町なのだろうが。

 城見物も通り一遍だった。只、私が凝っている山城の井戸は、これまた写真を参照してもらいたいが、立派な井戸だった。
折角、奈良県を代表し、日本三大山城の一つ高取城を遠路はるばる訪ねたのに、充分な成果を披露できないのが、心残りである。
 たった一つ司馬師の作品「おお大砲」がこの城を舞台にしているのだ、私はこの短編を繰り返し読んだのだ、と、お経のように唱えて、申し訳にしている。
高取城の城下町では高取土佐町並み「町家の雛めぐり」がちょうど開催
されていました。ひな壇の最上階に高取城。
土佐街道沿いにある創業は1824年の金剛力酒造。「巽高取 雪かと見れば 雪じゃござんせん 土佐の城」とかつての城下からの白亜の天守閣を眺める歌が紹介されています。



 ■62 和歌山城 
  (訪問日 平成24年3月15日)

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** 1 御三家。紀州藩と尾張藩 役を果たした紀州藩と頼りなかった尾張藩

 和歌山城は徳川御三家の紀州藩56万石の城である。藩祖は家康の十男頼宣。御三家とはこの紀州藩と、尾張藩(藩祖は家康の九男義直。62万石)水戸藩(藩祖家康十一男の頼家。35万石)であるが、正式に制度・役職として定められたものではなく、水戸藩など五代将軍のころに御三家に加えられたと書かれている。尾張名古屋城が東海道の守りとして存在価値が高いことは分る。が、和歌山に城を築いた理由が、今を生きる私にはピンとこない。江戸への航路紀淡海峡の押えか、鉄砲の本場根来寺残党へのにらみか。
 紀州藩は八代将軍吉宗を出しその後14代の家茂まで紀州の血で徳川家をつつがなく維持したのだから「御三家」の役を充分に果たした。
 御三家筆頭の尾張藩はどんな出番があったか?党内野党として、将軍のチェック機能として動いたか?吉宗の倹約令に独りでに楯突いて異常なまでにデフレ政策を身を持って演じた宗春。そこには紀州と尾張の間の強烈なライバル意識が糸を引いていた。
 幕末の尾張藩・紀州藩の対応も対照的だ。14代将軍まで出した紀州藩が、当然、長州征討、蛤御門の戦いで幕府軍の先頭に立って戦ったのに対し、真っ先に本家を支える役割を担っている筈の尾張藩は藩内の反対意見にヨロメキながらでも新政府のメンバーとして徳川家に刃を向けているのだ。ちょっと腑に落ちない思いがする。

2 二代将軍秀忠について 

 家康には男の子供が11人いた。長男信康は信長への気遣いで死を命ず。次男秀康は秀吉への気遣いで養子に出す。三男が後継者と目された秀忠だ。この秀忠が天下分け目の関が原の戦いに遅参したことはあまりにも有名である。しかし不思議なことに秀忠はこの「大失態」にも拘らず後継者の地位を失わなかった。6歳で死亡した七男、八男を別にしても先述した御三家を起こす九男、十男、十一男と候補者は豊富に居たのにである。
 だから、私は、この秀忠の「遅参」は徳川家最高司令官たちが書いた「故意の遅参」だ、と、考え、皆に言い触らすにだが、いつものように誰にも相手にされないでいる。
 では、何故、私はそう思うか。読んでほしいし、出来れば賛成してほしい。
しばらく前にNHKの大河ドラマで「お江」が取り上げられた。お江は秀忠の妻である。彼が偉いのか、彼女が偉いのか、秀忠はお江一人に操をたてて、側室をつくらなかった。
 そして、ドラマの中では家康もお江を大事にしてトップシークレットを惜しげもなく彼女に漏らしていた。ある時、家康はお江にこう告げた。
 「難しいことは、後継者を生きながらえて、地位に着かせることですよ」と。
つまり、後継者は戦場などに出さずに、温存しておくべきだと、家康始め徳川家最高幹部は考えていたのだ。大事の前の小事。真田に手こずった振りをして、関が原への参戦を忌避したのだ。もし、東軍が破れたら秀忠が総大将になって再起の戦いが出来るではないか!これが、私の仮説です。

3 家康の六男 忠暉について

 忠暉には熱狂的なフアンが多い。隆慶一郎「捨て童子」の読者たちだ。この本では颯爽とした異能の二枚目忠暉に対し、彼をことあるごとに苛め抜く秀忠は悪役だ。
 と、書き始めたが、ここは和歌山城のページだ。御三家から筆が走って秀忠になって・・。
忠暉サンは更に和歌山城に関係ない。ここで止めよう。

4 和歌山城について

 城は司馬師の「街道をゆく」に詳しく案内されている。その案内書を片手に天守閣に登り、「雑賀鉢」を見て、司馬師が絶賛する「鶴の渓」(写真参照)で深呼吸をした。
和歌山には昨夜伊賀上野から入った。「初めて」和歌山県に泊まった。「最後」にはしたくない。城下町を歩く時間もなく濠の一部(写真参照)をみただけで帰京したのだから。
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