続日本100名城
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  「続日本100名城」は(財)日本城郭協会が平成29年4月に発表。平成30年4月からスタンプラリーを開始した。
***スタンプはこれからながら既に登城済 **たぶん登城済
北海道 101 志苔舘
102 上ノ国勝山舘
青森県 103 浪岡城
岩手県 104 九戸城
宮城県 105 白石城 ***
秋田県 106 脇本城
107 秋田城 ***
山形県 108 鶴ケ岡城 ***
109 米沢城 ***
福島県 110 三春城 平成30年(2018年)7月28日登城 こちらから
111 向羽黒山城
茨城県 112 笠間城 平成31年(2019年)1月18日登城 こちらから
113 土浦城 平成31年(2019年)1月18日登城 こちらから
栃木県 114 唐沢山城 平成31年(2019年)1月18日登城 こちらから
群馬県 115 名胡桃城 平成30年(2018年)6月24日登城 こちらから
116 沼田城 平成30年(2018年)6月24日登城 こちらから
117 岩櫃城 平成30年(2018年)6月24日登城 こちらから
埼玉県 118 忍城 平成30年(2018年)8月30日登城 こちらから
119 杉山城 平成30年(2018年)8月30日登城 こちらから
120 菅谷館 平成30年(2018年)8月30日登城 こちらから
千葉県 121 本佐倉城 平成30年(2018年)5月27日登城 こちらから
122 大多喜城 平成30年(2018年)5月27日登城 こちらから
東京都 123 滝山城 ***
124 品川台場
神奈川県 125 小机城 ***
126 石垣山城 ***
山梨県 127 新府城 平成30年(2018年)9月27日登城 こちらから
128 要害山城 平成30年(2018年)9月27日登城 こちらから
長野県 129 龍岡城 ***
130 高島城 ***
新潟県 131 村上城 ***
132 高田城 平成30年(2018年)4月22日登城 こちらから
133 鮫ケ尾城 平成30年(2018年)4月22日登城 こちらから
富山県 134 富山城 **
135 増山城 平成30年(2018年)4月21日登城 こちらから
石川県 136 鳥越城 平成30年(2018年)4月21日登城 こちらから
福井県 137 福井城 **
138 越前大野城 平成30年(2018年)11月18日登城 こちらから
139 佐柿国吉城 平成30年(2018年)11月17日登城 こちらから
福井県・滋賀県 140 玄蕃尾城 平成30年(2018年)11月17日登城 こちらから
岐阜県 141 郡上八幡城 平成31年(2019年)3月29日登城 こちらから
142 苗木城 平成31年(2019年)3月28日登城 こちらから
143 美濃金山城 平成31年(2019年)3月28日登城 こちらから
144 大垣城 平成31年(2019年)3月29日登城 こちらから
静岡県 145 興国寺城 平成30年(2018年)9月24日登城 こちらから
146 諏訪原城 平成30年(2018年)9月24日登城 こちらから
147 高天神城 平成30年(2018年)9月24日登城 こちらから
148 浜松城 ***
愛知県 149 小牧山城 平成31年(2019年)3月29日登城 こちらから
150 古宮城 平成31年(2019年)1月27日登城 こちらから
151 吉田城 平成31年(2019年)1月27日登城 こちらから
三重県 152 津 城 平成31年(2019年)1月27日登城 こちらから
153 北畠氏館 平成31年(2019年)1月26日登城 こちらから
154 田丸城 平成31年(2019年)4月20日登城 こちらから
155 赤木城 平成31年(2019年)4月20日登城 こちらから
滋賀県 156 鎌刃城 平成30年(2018年)11月17日登城 こちらから
157 八幡山城
京都府 158 福知山城 **
大阪府 159 芥川山城
160 飯盛城
161 岸和田城 ***
兵庫県 162 出石城・有子山城 ***
163 黒井城
164 洲本城
奈良県 165 大和郡山城 ***
166 宇陀松山城
和歌山県 167 新宮城 平成31年(2019年)4月21日登城 こちらから
鳥取県 168 若桜鬼ヶ城
169 米子城 **
島根県 170 浜田城 **
岡山県 171 備中高松城 ***
広島県 172 三原城 ***
173 新高山城
山口県 174 大内館・高嶺城
徳島県 175 勝瑞城
176 一宮城
香川県 177 引田城
愛媛県 178 能島城
179 河後森城
高知県 180 岡豊城
福岡県 181 小倉城 ***
182 水城 ***
183 久留米城 **
福岡県・佐賀県 184 基い城
佐賀県 185 唐津城 ***
長崎県 186 金田城
187 福江城 **
188 原城 **
熊本県 189 鞠智城 **
190 八代城 ***
大分県 191 中津城 ***
192 角牟礼城
193 臼杵城 **
194 佐伯城 **
宮崎県 195 延岡城 ***
196 佐土原城
鹿児島県 197 志布志城
198 知覧城
沖縄県 199 座喜味城 **
200 勝連城 **



          ■110 三春城 
    スタンプ設置場所 「三春町歴史民俗資料館」
    (登城日 2018年7月28日 )


   ▼画像をクリックすると大きく表示されます
***
 桜、梅、桃の三つの花が一時に咲くからこの町を三春と呼ぶという。本当にそうなのだろうか?こんなロマンチックでオトメチックな地名をいつから名乗っているのだろうか?こんな簡単な疑問をネットではなかなか回答が見つからない。
 三春は私の故郷に近く、「滝桜」のせいもあって馴染みの深い土地なのだ。小さいけれど有名な三春藩田村氏の歴史は芦名、佐竹、岩城などと争って、結構ヤヤコシイ。結局、愛姫が正妻として嫁いだ伊達家の後ろ盾で生き延びたのだが、徳川の時代はそれが仇になったか、田村家は改易となる。その後、これまた、ゴチャゴチャといろいろな藩主が入れ替わり、最期、維新の時には新政権に先走って、隣の二本松藩の恨みを買うなど落ち着かない歴史を持っている。
 この戊辰戦争後に福島県で所領安堵された大名家は、中村藩(相馬家)、守山藩(松平家)、そして、この三春藩(秋田家)の三家のみである。三春藩士の自由民権家・河野広中の誕生。3万石の小藩「福島」が県庁所在地になった理由。調べれば面白いことが沢山ある城である。
***
 この城に相馬野馬追祭りを見物に行った時に寄った。相馬に宿が取れず、郡山まで戻って一泊する途中である。不気味に静まり返り、すれ違う車も稀な浪江の通りを粛然として通り過ぎた日暮れ、16時半。スタンプ設置場所が閉まりかける時間を承知で押しかけ、無理に開けてもらって捺印したのだ。
 台風の余韻で降ったり止んだりの雨の機嫌を取りながら、城へ向かう。1504年築城と「公式ガイドブック」に明記された山城。何故、その時、田村嘉顕は「城」を造ろうと思ったのだろう?誰の真似をしたのだろう?例によって、私は駐車場で同行三名が本丸まで登って写真に記録してくれるのを待つ。「公式ガイドブック」には、スタンプ設置場所に「本丸(ボックス設置予定)」とあるが、「二之丸跡」の写真後方に移る赤いボックスがその設置場所だろうか?
 三春の町はなんとなくお洒落な街並みで、三春というオトメチックな町名にふさわしい。



          ■112 笠間城 
     
    (登城日 平成31年1月18日)  
     スタンプ設置場所「かさま歴史交流館井筒屋」

   

***
 「続百名城」に選ばれた城は山城が多い。それも、「知る人ぞ知る」城が多く、城博士を自任するこの私でさえ初めて名を知る「名城」が多数ある。知らない自分を責めるべきなのだが、時には、畏れ多くも、この城を百名城に選定した権威たちの見識を疑ってみたりする。

 この私の疑問へ選定委員長は「公式ガイドブック」の冒頭で詳しく経緯を説明されているので、皆様も熟読しよう。

 この笠間城も、ここに城があることさえ知らずにこの年まで生きてきた。新大宮ゴルフ倶楽部(現在マナゴルフクラブ)や希望ヶ丘カントリークラブに大金をつぎ込みメンバーとなり、所沢の自宅から遠路、日帰りやら、泊まり込みやら、散々通った。笠間はその通り道で、笠間稲荷や日動美術館にも寄ったりもした。
 城探訪はお金がかからない分、ゴルフより早く始めていたから、笠間にお城があることを知れば、少なくとも寄ろうとしたはずだ。寄ってないことを残念に思っていたはずだ。
 しかし、その存在を知らなかった。今度、「続百名城公式ガイドブック」で初めて知った。

 唐沢山城を見学して、KとSと笠間城へ。山城だから私は最初から城見学を諦め、スタンプ設置場所「井筒屋」へ直行。かの「千と千尋」の舞台にも似た日本建築にスタンプは大切に扱われている。帰宅後、パソコンのYOU TUBEでこの建物の曳き込み作業を見た。
 笠間市をパソコンで見るといろいろ面白い。1622年から1645年まで浅野家が城主であったことから、家老大石家の屋敷跡がある。義士の坂本九ちゃんが笠間稲荷で結婚式を挙げ、20年住んだとかで家が保存されている。更に、座頭市の生まれ故郷とかで「笠間の血祭り」が作られこれも碑が建っている。
***
スタンプ設置場所「井筒屋」 井筒屋内部。
スタンプが主役の場所を占めている。
井筒屋内部

 ⇒右写真
 入るなり「オイナリサンは売り切れ」と云われた蕎麦屋で。
 「笠間義士会蕎麦講処」の看板に注目。
 赤穂義士の多くに笠間藩出身者がいた由)

 昔、私が城巡りを始めたころはパソコンなどなかった。参考は全て書籍だった。なかでも人物往来社の「日本城郭全集 全15巻」は座右の書で、訪城する度に紐解いていた。今でも書棚の一等席に鎮座している。久しぶりに埃を払って参照してみた。「第三巻千葉・茨城・群馬の城 予約特価860円。1967年3月18日初版発行」今から50年前、昭和42年のことだ。記事は1ページ丸々費やされ、縄張りも、現状と同じように説明され、当時から名城扱いされていたとわかる。つまり、この城を知らなかった私の浅学菲才を告白して、次の城へ進もう。

昼をした蕎麦屋で。
「笠間城主下屋敷跡」。
トイレの中の張り紙に注意!
「笠間城主下屋敷跡」 親切・丁寧な案内板。
親切・丁寧な「枯れ枝注意」の
看板に注意!
井筒屋全景 「笠間城主下屋敷跡」にて。KとS。




          ■113 土浦城 
     
    (登城日 平成31年1月18日)
    スタンプ設置場所 「土浦城東櫓」


   


***  112番の笠間城を出て約1時間で113番の土浦城に着く。かくのごとく、土浦は交通の便が良く、手近の平城として数回訪れている。簡単に行く事が出来、簡単に見て回れるので、その分印象も薄く、史実との組み合わせも思い出せない。しいて言えば、「予科練」だろう。我々の年代はまだ「予科練の歌」は宴会の定番で、「貴様と俺とは、同期の桜」と酒にも歌詞にも酔いしれていた。今は、宴会も放歌高唱もなくなった。(ついでに言えば、山でもテント場が制限され、「山の歌」を歌う機会がなくなった)

 そんなわけで、土浦城とは縁が薄い。土浦市立博物館の駐車場に車を停める。
ヒョッコ、ヒョっコと杖を突きながら、100円払って博物館に入ったが、そこにはスタンプはなく「東櫓」にあるという。そう、ガイドブックにはそう書いてある。仕方がない、「今まで、「正・続百名城」の中で、スタンプ捺印の為にお金を払った城は何処だっけ?」などと考えながら、また、ヒョッコ、ヒョっコと杖を突きながら平城を歩く。しかし、「東櫓」は見上げるような階段の上。戦意を喪失して、スタンプ・ゲットをKに託した。

 土浦と、いつか、ご縁が出来るだろうか?神のみぞ知るとは大袈裟な・・。
 土浦からはSの「おおたかの森」も、Eの我が家も近い。Kの丁寧な運転に送られ、今日は早目に家に着いた。


***
多分、西櫓 東櫓への直登の階段。
小さな石碑には「本丸跡」とある。 東櫓遠景。






          ■114 唐沢山城 
     
    (登城日 平成31年1月18日) 
     スタンプ設置場所「唐沢山神社社務所」


   

***
 7時にKに迎えてもらい、「おおたかの森」駅でSが同乗し順調に城へ行く。取りあえず蔵屋敷の駐車場に停めKとSは山道を登り、私は茶店で一服。手持無沙汰な店番のおばさんが相手してくれる。佐野ロータリークラブ発行の「戦国唐沢山城」を購入し、甘酒を所望。
 見晴らしが良く、「あの枝と枝の間に見える山が浅間山だ」「へー」。甘酒に生姜が付いていることに感心しているところへ二人が帰ってきた。Sは地元栃木県の出身だから忽ち云う。「甘酒に生姜を付けるのは常識だ。感心するとは恐れ入る。それに、あの山は方角からして浅間山ではない。男体山ではないか」Kは福岡出身。本当の酒飲みだから甘酒など呑まないので生姜論争には加わらなかったが、「山」の比定には即座に参戦。スマホを取出し「現在地はここ。北はこっち。よってあの山は男体山」と断定。おばさんは外できりのない落ち葉掃除に専念し始め、論争に加わらなかったが、私は今でも浅間山ではないかと思っている。
 
***
佐野市一瓶塚稲荷神社。
銅製の鳥居は国の重要美術品
案内図。
図の中の「関東七名城」の
リストが面白い。
どこかにも書いてあったが、
ネコがやたらに多い。
見えにくいだろうが
平成26年念願の
「国指定史跡」になった。
見えにくいだろうが
枝の間に浅間か男体山か、
問題の山がある。
甘酒。生姜付き。

 「上まで車で行ける」と私を乗せてスタンプ設置の唐沢山神社まで、一車線で擦れ違いに苦心しながら往復。この神社の祭神は藤原秀郷。平将門を討伐した将だ。将門の史跡は歩きたい場所だが、秀郷の史跡・履歴となると今まで考えもしなかった。秀郷の子孫は奥州藤原家の祖となり遠藤はおろか、Kこと近藤、Sこと斉藤の藤一族の祖となってゆくのだ。今日、K、S、Eと、偶然、藤一族が揃って祖先参りをした不思議。感心しませんか?

 もう一つの偶然を。この神社のパンフレットに曰く「明治13年、佐野家ゆかりの人々は
唐沢山の古城跡に秀郷公を祀る神社の創建を図った。この念願を相談された大蔵卿佐野常民は志に感動し、国や県に働きかけ、神社設立と広大な官有林払下げが許可された」と。
 これを読めば、佐野常民は当然佐野出身と思うが、彼は佐賀藩出身で、「下野佐野には直接の関係はない」とパソコンに明記されている。佐野市に佐野氏が貢献と云う偶然に、感心しませんか?

肝心の城・城主。パンフレット・スマホに詳しいので割愛。

車で登った唐沢山神社。
ここがスタンプ設置場所。
見えにくいだろうが
二ノ丸に立つS。
立派な石垣。
車から降りもせずパチリ。






          ■115 名胡桃城 
    スタンプ設置場所 「名胡桃城址案内所」 
    (登城日 平成30年6月24日)


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***
 久し振りに城探訪のフルコースをした城だ。いつもの通り7時にYさんの迎えを受け、関越月夜野ICからすぐの名胡桃城の駐車場に着く。9時30分。駐車場もかっての般若郭の由だが、城の案内所はすぐそば。(写真1)立派な建物。ヴィデオ、展示、鎧兜(写真2)、常駐の案内人と内容も立派。満足してスタンプを押す。
 城を一回りする。山城ではあるが、郭は堀切で区切られていて、さほどの高低差がなく、よく整備されているので、今の私の足でもなんとか本郭の先の物見近くまで行って、帰る事が出来た。(写真3〜5)最近の城見物ではそこまで見る余裕がなく見過ごしてしまう「碑」(徳富蘇峰の筆)や小さな祠に奉納されている訪問客持参の六文銭などにも目を向ける事が出来た。(写真6、7)
***
写真・1 写真・2 写真・3
写真・4 写真・5 写真・6 写真・7

 フルコースに欠かせないのが城の故事・来歴だ。その点、この小さな城は全国区だ。小田原北条が豊臣秀吉の調停をないがしろにして、真田が守るこの名胡桃城を攻めたのだ。秀吉はこれに激怒して、北条征討のキッカケとした。そのキッカケとなった城として歴史に登場するのだ。
 しかし、北条が名胡桃城を積極的に攻めるとはチト不自然と思う。おそらく秀吉・真田などの名うての役者たちが巧妙に挑発し結果的に北条討伐の口実をデッチ上げた。と、信じる人は私の他にも多いだろう。
 
 名胡桃、沼田、岩櫃。群馬の「続百名城」は全て真田ゆかりの城だ。往年のベストセラー池波正太郎「真田太平記」を紐解かざるを得ないだろう。新潮文庫第3巻には「偽書」が飛び交い、北条が名胡桃攻略に踏み切った、と、記されているがこれが真実とは作者も思っていない、と、邪推するが。いずれにしても、北条は秀吉に服せず、滅ぼされた。



          ■116 沼田城 
    スタンプ設置場所 「沼田市観光案内所」 
    (登城日 平成30年6月24日)


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***
 この城は今まで数度訪れたことがある。近辺には観光地が多いので、沼田城は寄りやすい場所だからだろう。交通の要衝として重要な城とよく解る。しかし、城そのものは、公園と化し、中を歩けば移築された国重要文化財生方家や土岐邸などの見物が主になるほどだ。
 従って、今回は前の訪問時にはなかった城入口の立派な「観光案内所」の立派な「スタンプ捺台」で捺印し、Yさんの散策を待った。

 待つ間、考える。この城は1532年沼田氏が築いた由。それまではなかったのか。なくても沼田氏は生きてこれたのか。しかし、城がないと忽ち滅ぼされる時代となった。
 これは沼田氏だけでなく、日本中、地方豪族は同じ運命背負ってしまった。
 これらの築城の費用は?いくらくらいか?誰が、誰に払うのか?

 改めて、日本の城の歴史を考えねばならない。「日本百名城公式ガイドブック」には百名城を築城年代順に整理した資料がある。第一号は「吉野ヶ里」だ。あの史跡を「城」と定義した見識には敬意を表するが、誰からの攻撃に対する「守りの城」か?が、定かではない。「吉野ヶ里」に匹敵する攻撃者が、国内にいたのか?その遺跡があるか?大陸からの敵を想定する論者の方がまだ説得力がある。
 吉野ヶ里の次の城は、大野城、鬼ヶ城で、これは目的は「大陸」だと明確だ。しかし、不思議なのはそこで日本の築城は長い眠りの時間があるのだ。記紀にも壬申の乱にもヤマト政権の全国統一にも城は出てこない。精々、稲城であり茨城である。古墳の形状、大小によって、大和朝廷が地方豪族を傘下に入れていく過程が解るだけで城は出てこない。
 ヤマトは東北に手を伸ばす。そこで多賀城などが登場するが、さて、頼朝の全国制覇、源平の戦いでは城の出番はない。大体、武士の相手の朝廷は城を持たないではないか。ようやく南北朝の混乱期に楠正成の千早城で城が歴史の表舞台に登場する。先ほどの築城年代史にも登場する。

 この辺で私が持つ城への疑問を述べるのはやめよう。城を築く費用がどう作られるかも、又別途に考えを纏めよう。でも、でもだ。これら中小豪族の収支はどうなのだろう?租税。しかし、年貢というように収入の主は秋の収穫の時一回ではないのか?負け組は勿論、勝って新領地に入っても、収穫期まで年貢は入ってこないだろう。
 城の縄張り・普請・作事・歴史への興味から、その資金繰りに興味を持つのが私のこれからだと思うのだが。
 
 こんな事を考えているうちに、Yさんが写真を撮って帰ってきてくれた。
 以下、その写真。
***
スタンプ捺印 沼田城にあったという天守閣模型。
よく造る金があったものだ。
鐘楼。綺麗な写真。
今回のもう一つの主役、
名胡桃城が遠くに。
絵図
 
 ■今回の真田三城巡りの昼飯は道の駅・中山盆地の「レストラン 中山盆地」
3色蕎麦の「中山盆地スペシャル」と「ひもかわカレーうどん」をそれぞれチョイス。
ローケーションも味も素晴らしい道の駅です。






          ■117 岩櫃城 
    スタンプ設置場所 「平沢登山口観光案内所」 
    (登城日 平成30年6月24日)


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***
 名胡桃城から国道145号で岩櫃城へ向かう。この道はドイツにならって「日本ロマンチック街道」と名付けられ四万、草津、河原湯などの温泉やロックハート城などへ行くときによく使った。約1時間、11時半に平沢登山口着。案内所は仮の小屋だが(写真1)、林立する「続百名城岩櫃城」の幟が初々しい(写真2)。小屋の中のパンフレット類も実に豊富だ。その中の「真田街道ガイド」などはパンフレットと云うより充分に読みごたえがある一冊だ。なにしろ、上田、長野から始まって、妻恋、沼田、片品などの群馬県11か所を網羅し、白石、由利本荘、蔵王の東北に飛び、大阪、九度山まで全国の真田関連の史跡を案内している。発行は上田市観光課内。流石、岩波の牙城、長野県だ。
 有難くスタンプを押印し、山城の模型など見てから、やおら、登山口へ向かう(写真3、4、)。岩櫃山、標高こそ802Mと高くはないが、頂上付近は200Mの断崖絶壁。コースによっては鎖場もあると。名前からして恐ろしそうで、登山の現役時代も敬遠してき
***
写真・1 写真・2 写真・3 写真・4
 その中腹の山城だ。身障者の手に、ではない、足におえる城ではない。ここもYさんにお任せ。でも、Yさんが本丸へアタックしている間、単独、「中城跡」まで足を運ぶ。足を上げて歩けたのだ。往復30分。このような記事が訪城記のメインになるのだが仕方ない。
(写真5〜8))

 池波正太郎の「真田太平記」は武田勝頼の滅亡の時から始まる。新府に逃げ帰った勝頼に当時の真田の党首、昌幸はこの岩櫃城に籠って陣を立て直すことを強く勧めているが容れられなかった。この大長編の真田家の物語は真田家は既に武田家の有力な武将となってから始まって、その前の真田の庄の小豪族の時代には触れていない。
 それならそれでよいが、一将卒の真田家は主の武田家から俸給を貰っていたのか?それとも自分で稼いだ金を上納金として主人に収めていたのか?真田家も家臣を抱えている。彼らに俸給は支払っているのか?各々、自分の衣・食・住をどう賄っていたのか?
 
 現代。市と県。県と国。各々、補助金を貰うのか?納入するのか?PCで吉川市の予算を覗いたのだが、今のところよく解らない。
 
 城を建てる金の捻出をはじめ、「真田家の家計簿」を調べてみたい。
写真・5 写真・6 写真・7 写真・8



     ■118   忍城  
         登城日 2018年8月30日 
         スタンプ設置場所 「行田市郷土博物館」
 

***
 館内は車椅子利用

 「続百名城」では初めてのKの車での訪城。7時吉川駅。8時57分行田市郷土博物館。3分間開館を待つ。入口にスタンプ台。100円の入館料を払わずに捺印できるが、開館してなければ無駄足も。
 博物館の展示を見る。城見物を諦めているのでゆっくりヴィデオを数か所見る。「ヴィデオの前に椅子がない」と係に云うと、「車椅子をどうぞ」と。ナルホド。

 忍城水攻めは秀吉の指示
 展示見学の収穫は、忍城の「水攻め」を石田三成に指示した秀吉の書状を見たことである。巷間、三成が秀吉を真似て実施して失敗したと云われている。だから、三成は実戦が下手だ、だから、関が原で負けたのだ、と、云われている。往年のベストセラー「のぼうの城」も三成主導説に基づいている。話は違うが、「松島や ああ松島や 松島や」を、「私は」、ではなく、「私も」長い間、芭蕉の句と思い込んでいた。季語がないと気がついて調べて初めて他の狂歌師の作と知った。クワバラクワバラ。

 大名と国変え

 忍城は秀吉の小田原攻めで唯一、落城しなかった城とも知った。名城なのだ。だから徳川家も大事にして、城主には松平家や阿部氏などの親族、譜代が続いた。
 しかし、この城に限らず、藩主の交代・移封は何故行われたのだろう。功績があっての加増や失政があっての左遷などの明白な理由がある場合は解りやすいが、なんとなくあっち行ったりこっち行ったりする大名・家臣、或いは御用商人たちの苦労を、私は知ることが少ない。だから、百名城の丹波篠山城で「大名と国変え」の絵図は貴重品として、私のホームページで異彩を放っているので、見てほしい。大名の国変えは疑問を持つ人が多く、パソコンで検索すると、多くの質問に多くの回答が寄せられている。これも併せてご覧ください。

 行田市散策

 行田市は観光資源が豊富な市だ。古代ハスの里、埼玉古墳公園などこれ一つで充分人を呼べる。ナントカ通りの人形群など面白いのに市の観光案内にも載ってない。それほど多士済々なのだ。屋内でさえ車椅子を使ったくらいだから、博物館で見つけた郊外の石田堤を
一つだけ訪れて次に向かった。 




***


     ■119   杉山城  
         登城日 2018年8月30日 
         スタンプ設置場所
 


ご報告準備中







          ■120   菅谷館  
         2018年8月30日 
         スタンプ設置場所 
         「埼玉県立嵐山史跡の博物館展示室受付」
 
***
 埼玉県比企郡嵐山町菅谷がこの菅谷館の住所である。埼玉県人で40年過ごしたので、県名はすっかり身についている。比企郡は島津家の出身地として、嵐山は名門ゴルフ場の名として何れも好印象のある地名だ。菅谷も然り。昔、スリーデーマーチの集合地として知り、その後、城探訪で一日かけて歩いたところだ。とりわけ比企一族は頼朝の乳母比企尼、修善寺物語にも語られ北条政子にいびられる若狭局など悲劇のにおいが立ち込める一族だ。
 それでいてこの博物館に入るのは初めてだ。ここでは最初から受付で車椅子を借り、下りのスロープではKに支えて貰ったりしてゆっくりヴィデオを勉強する。
 私が勉強している間にKは城見物。直ぐ帰ってきた時間からして一部しか見なかっただろう。この暑さだ、無理に勧められない。

 畠山重忠の居館でその後山内上杉の城になったという。重忠は、頼朝の奥州征討でも武力を発揮しているらしいが、それは平家物語のような語り部がないせいか皆は知らない。

 Kの車に戻る。この齢で彼は燃費の良い新車に乗り換えている。ただ、乗っていて前より安心な運転になった。スピードはあまり出さず、無理な追い抜きなどしないし、車間距離も充分だ。と、褒めたが、彼は褒め言葉と取ったかどうか。
 ナビも勿論搭載しているが、それにはあまり頼らずスマホを手放さない。危険じゃないかと思ったが、スマホもチャンと音声で案内するのだから安心だ。
 昼にトンカツを食べたいとリクエストすると、アーラ不思議、ヒキちゃん(今日私が名付けたスマホナビの名)は人里離れて繁盛しているトンカツ屋に案内してくれ、満足した。


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          ■121 本佐倉城  
    スタンプ設置場所 酒々井中央公民館 
    (登城日 平成30年5月27日)


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 千葉県は隣の県だから数えきれないほど行っている。しかしその殆どが、千葉カントリーであり、大利根カントリーであり、茂原や果は夷隅などのゴルフ場であって、千葉市を訪れたのはこの長い人生で二回のみである。
最初は顧客開拓に行った。わが社は、北海道から沖縄まで全国に顧客を持つのに一番近い県に顧客口座が一つもないのが如何にも口惜しく、見込み客に飛び込んだのだ。ケンモホロロに扱われ意気消沈して一度で諦めた。
 二回目は、既に仕事から片足どころか両足を抜いて、城見物に熱中し始めた時である。東京から乗り換えなしで1時間。更に歩いて行ける千葉城に登った。「竜馬がゆく」を読み耽っていた時代である。千葉は北辰一刀流千葉道場の千葉で、竜馬と婚約したともいわれる、息女千葉佐那と北辰一刀流の北辰つまり北極星に興味が集中していて千葉の歴史には関心がなかった。。

 現在の千葉でさえ馴染みがないのだから、歴史を遡って頼朝の時代からこの地に根を張っていた千葉一族の盛衰は全く頭に入っていない。この本佐倉城は「千葉氏の最期の地」とあるのだが、鎌倉・室町期の関東は、千葉氏のみならず誰も彼もゴチャゴチャの時代だ。
 群雄割拠と云えば聞こえは良いが結局はドングリの背比べで、ようやく小田原北条が
統一したと思ったら、忽ち、秀吉に降参して、北条傘下に入っていた千葉氏も永い内憂外患に苦しみぬいた歴史を閉じた。

 さて、本佐倉城。国指定史跡の典型的な山城。最初から登城は諦めて、真っ先にスタンプ設置場所の酒々井町中央公民館に車を停める。写真の如く公民館は入口に「祝続百名城選定」の垂れ幕があり(写真・1)、内部の一等席にご丁寧な「スタンプはこちら」の指示がある。(写真・2&3) 
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写真・1

写真・2

写真・3
 訪問数はまだ少ないが、今回選定された「続百名城」の土地の人は、最初の「百名城」の諸城より、選定されたことを光栄と思い、城フアンと共に知名度を上げようと盛り上がる姿勢が嬉しい。
 本佐倉城の廃城後、徳川政権は佐倉城を設け、佐倉城は早々と千葉県で唯一、百名城にノミネートされている。当然私は訪城している。その時のスタンプ設置場所の印象を、私の、百名城訪城記佐倉城の巻から以下転記する。

 佐倉城の百名城スタンプの設置場所
 城は国立歴史民族博物館の一郭にある。違う。博物館が城の一郭にあるのだ。
 この城の住所を見てみよう。「城内町 官有無番地」こんな番地が世の中にあるとは。
 とにかく、城の中に国立博物館がある。但し、百名城のスタンプは当然この博物館の入口にある筈なのに、「100名城スタンプは佐倉城址公園管理センターで押印できます。管理センターは自由広場の隅にあり」と、遠くに余計者のように追いやられている。百名城スタンプのフアンは多いし、今後も増えるだろう。地方活性の有望な戦力をこのように冷遇するケースは他にどこがあったろうか?」

 本佐倉城に話を戻そう。場所はそこから車で直ぐだ。山城の入り口を歩いて少し登ってみる。(写真・4&5&6)100歩位は歩いたかな。今の私にはこれ以上は無理、と、いとも簡単に諦めてサッサと車に戻り、帰宅へ。ここから松戸は近い。したがって吉川も近い。千葉と埼玉はかっては同じ葛飾郡に属していたのだから、近くて当然だ。


写真・4


写真・5


写真・6



          ■122 大多喜城  
    スタンプ設置場所 大多喜城内
    (登城日 平成30年5月27日)


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 今、私の住む埼玉県吉川市の東を流れる江戸川を越えれば、そこは千葉県だ。関東一都六県のうち、東京・神奈川は視野に入れず、私は埼玉県のライバルは千葉県と思い定め、折に触れ勝手に両県の優劣を頭の中で論じている。今日は、千葉県の「続百名城」を訪ねるというのでいささか身構えている。千葉県の百名城は佐倉城のみ。埼玉は鉢形・川越の二城。
 「続百名城」でも千葉は本佐倉と大多喜の二城に対し、埼玉は忍・杉山・菅谷の三城。何れも埼玉が勝った!ワーイ、万歳!私の優劣論とはせいぜいこんな程度なのだ。

 例によって、7時にYさんに迎えられ千葉県へ出発。今回、千葉県に行くのはYさんが新聞で見つけた長生町役場周辺の蕎麦畑の花を見るのが主目的だ。失礼。長生「町」と書くとそこは徳島県阿南市の町で、ここは、長生「村」なのだ。
 ルートを東京経由でとったため、千葉に入る渋滞に悩む。千葉県のゴルフ場へ通っていた時代、散々経験した渋滞だ。そう、これぞ、千葉県の泣き所だと云いたいが、埼玉も場所によってひどい渋滞があるか。

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 白い蕎麦の花は初めて見たので壮観だ。Yさんの写真を見てほしい(右写真)。近所の蕎麦やを見落とした為、味わうことは出来なかったが。ついでに、役場に寄って、トイレを借りた。
 長生村とは一昔前なら名前だけでも人を呼べる縁起の良い名前だが、今は如何だろう?長生きが決して目的にならない時代になったのではないか。

 そんな顰蹙を買うような話はひっこめて、大多喜に向かう。何故か大多喜はこれまで数回来ているので、スタンプだけ押して帰ってもウシロメタイ気持ちにならない。しかし、スタンプがある「大多喜分館」とは、城の模擬天守閣のことなので結局は急な階段を攀じ登って二階まで行かねばならなかった(写真・1)。
 但し、入館したお蔭で、館備え付けの兜を女性スタッフに着付けてもらい、Yさんと二人で写真に納まる事が出来た(写真・2)。「兜は重いですよ」と着用前に云われたが、その通り、かなりの重量である。これを冠ぶって尚戦うのだ。現代だったら、矢玉除けはツルんとしたヘルメットであろう。重い兜をなおかつ飾り立てた昔の武士の美的感覚に敬意を表すべきであろうか。

写真・1

写真・2

 
 
 城のあちこちに「本多忠勝を大河ドラマに」という幟がはためいていた。同様趣旨の幟は小谷城で「三姉妹を」、高遠城で「保科正之を」と見た記憶があるが、本多忠勝は大河ドラマになるほどのドラマを持っているか。申し訳ないが知らない。
 けれど、いやしくも徳川四天王どころか、徳川三将に入る猛将の本多忠勝である。何故こんな田舎で、10万石で・・、と思う。パンフレットには里見家に対する押さえと書いてあるが、なにか勿体ないと思うのだが。そう思うのは当然で、この人事は家康が関東に移封された時のもので、まだ、徳川は天下を取っていないのだ。

 納得したところで、城を後にし、駅前の「大手門」を写真にとり、駅前の「番所」で「猪どんぶり」を食べ、次に向かった(写真・3&4)。

写真・3

写真・4



    

 ■127  新府城  
      2018年9月27日 
      スタンプ設置場所 「韮崎市民俗資料館」


       

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  新府城は武田勝頼が築城した。いや、築城しようとした。勝頼は信玄の嫡男として偉大な父に負けまいと奮闘したが挫折した二代目の典型として有名だ。
 しかし、今、甲府市を訪れると来年の「開府500年」への準備で盛り上がっている。
 500年前の「1519年に、武田信虎が甲府市のつつじが崎に館をつくり甲府を開創」と、市のホームページに書いてある。「開創」とはどうゆうことか?解ったようで解らぬ文章だがそこは無視してここでは、武田信虎とは信玄の父、勝頼の祖父であり、よって、勝頼は三代目であると認識を改めよう。
 信虎だって、歴史ある武田家の何代目かで、後継ぎ争いに勝ち残って、たまさか、つつじが崎に館を開き、嫡男の信玄が全国区の武将になったので「初代」となったのだが。
 「たまさか」初代になった信虎の生涯も、スサマジイ。甲斐をほぼ纏めたと思ったら、今度は自分が息子の信玄によって甲斐を追われ、駿河に亡命する。そして、息子はおろか、孫の勝頼より長生きするのだからオソロシイ。ご縁があれば、詳しく正確な彼の人生を知る事が出来るだろう。

 新府城。勝頼は長篠の戦で惨敗してからここに築城を始めた。何故、ここに建てようとしたのだろう?支払いはどう工面できたのだろう?真田昌幸は自分の岩櫃城(「続百名城」に選定)への逃避を勧めたというが・・。

 十年ほど前に発掘している場所を通りがかった。道路の傍の車で簡単にアクセス出来た。しかし今回行ってみたら、そこは駐車場になっていた。本丸は矢張り山城。私はその駐車場で、今日の同行者、KとSが登って帰ってくるのを大人しく待った。


 
 
 
 
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 ■128  要害山城  
       登城日 2018年9月27日 
       スタンプ設置場所 「甲府市藤村記念館」

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 この城へはKの車で行った。Kは沖縄から始まって九州・四国・中国地方の百名城の殆どを彼の車で案内してくれた。
百名城完登の時は、二人で江戸城で捺印しその足で城郭協会を訪れた。平成26年2月26日。今から4年以上前の話だ。この顛末は私のホームページ百名城の「江戸城」をお読み頂ければ有難い。
あれから4年「続百名城」が始まった。Kも私も80歳となった。彼の運転での遠出は遠慮せざるを得ないが、近いところなら、と、彼も乗り気になってくれて、今回は第一回目だ。

 先ず、甲府駅前のスタンプ設置場所へ。「藤村記念館」の「藤村」とは?と道中話し合うが、解らない。甲府には島崎藤村は似合わないし・・。
 館内に入って藤村とは明治初期山梨県令となった藤村紫朗の藤村と解る。但し、この記念館は藤村県令を記念するためでなく、彼が推進していた擬洋風建築を保存するための記念館とも解った。(1967年国の重要文化財となる)藤村紫朗は県令としては評判が良くなかったようだ。
 県令と云えば三島通庸をすぐ思う。百名城で訪問した山形城内には彼が建てたこれも国の重要文化財『旧済生館病院本館』があった。彼は鶴岡、山形、福島と県令を務めたが功績もあるが、政治的な弾圧に強権を用いた。特に、福島県では自由民権運動をひきいた河野広中を投獄するなど「鬼県令」と恐れられた。私の祖父は三春藩士河野広中のシンパであった。
三春城は「続百名城」に選ばれ先日訪城したばかりだ。しかし、只、行って、スタンプを押して帰ってきた。三春藩の歴史に思いを廻らせなかった。申し訳ないことをした。
 私のホームページ「遠藤晶土の百名城を行く 山形城」及び「続百名城 三春城」を読んでいただければ有難いが。

 記念館で無事捺印し、ついでに、年甲斐もなく、親切な女性スタッフと記念写真を撮って要害山城へ向かう。
 この城は十数年前か、探訪したことがある。尾根道に曲輪や井戸やらの小さな標識が建っている。あたりは、やせ尾根に草叢が茂るのみで私の知識では昔を思い浮かべる術もなく、ただ登って車を置いてある積翆寺に戻った。
 その時の印象が強いので、パンフレットに「本城・支城ともに遺構の保存状態が良く、戦国期のやましろの様相を今日に伝える貴重な史跡で国指定史跡となっている」の記事に目をつぶって積翆寺から引き返してきた。

 工事でガチャゴチャしている城内に静かに佇んでいる国の重要文化財「旧済生館病院本館」を見学する。人間大好きな私は、例によって、病院の施設よりこの時代や場所にそぐわない立派な病院を強引に建てた、当時の山形県令、三島通庸に興味を惹かれた。
 鶴岡・山形・福島と東北各地の県令を務めた元薩摩藩士三島は、交通網の整備や、近代的建築の導入など今に残る功績もあるが、増税や労役賦課、寄付金強要などへの批判に対しては弾圧一辺倒であった。
 そして、福島県令に着任すると自由民権運動を徹底的に弾圧し、自由党の首領、河野広中を逮捕。投獄した。
 福島県は私の両親の故郷である。母方の本家には河野広中からの自筆の手紙が額に入って飾ってある。見てはいるが、内容を確かめたことはない。いや、河野広中の経歴も、読んだことがなかった。この機会に検索して見ると出獄後も結構大活躍をしている。
 パソコンは便利だ。知らないこと・知りたいことを瞬時に教えてくれる。但し、キリがない。山形城と三島通庸は関係があるが、元三春藩士河野広中は関係がない。生憎、三春城は百名城でないが、何れ、紹介する機会があることを願う。

 県令と云えば山形城の一隅に「鬼県令」と恐れられた三島通庸を思い出す。私の祖父は彼に弾圧された福島県
 
 当時の山梨県令だった藤村紫朗が推進していた「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築の代表作とされる

 
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 ■132 高田城 
      (訪問日 平成30年4月22日)

       

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 鮫ヶ尾城の探索を諦めたので、少し時間が出来た。「帰りがけの駄賃」で「高田城」に寄ることにした。「行きがけの駄賃」という言葉の語源を紐解くと「馬子が荷物を届ける時、他の荷物も持った場合の駄賃」とあり、ナルホド、「行きがけ」の言葉より、「駄賃」の言葉の語源が馬子に払う賃金なのだと腑に落ちた。親切な辞書では、「現在の運送会社は帰りの荷物に頭を悩ましている」とまで書いてある。が、私が悩む問題ではない。
 高田城は交通至便の平城、桜の名所の観光地として有名で情報豊富、いつでも行けると思って未訪城である。丁度良い機会と、寄ってもらう。鮫ヶ尾城から、約、40分。折しも桜の季節。今年は開花が早く、また時間も15時に近かったので日曜・快晴でも混雑は少なく、無事、身障者用駐車場に入る事が出来た。
 ここで、書きにくいけど、本当のことを書こう。私は、この駐車場で、車から降りることもなく、ボケーッと時を過ごしたのだ。城探索はおろか、スタンプ捺印までYさんに任してしまったのだ。この怠慢、ルール違反が、「最初」となるのか、「最初で最後」になるのか?今後、傘寿の私をどこまで甘やかすのか?或いは、どこまで叱咤督励するのか?興味を持って見守りましょう。
 スタンプ設置場所)は「公式ガイド」には「2018・7までは高田公園内小林古径邸受付管理棟、7月以降は上越市立総合博物館(仮称)」とある。再訪も面白いだろう。
 Yさんがスタンプをゲットして車に戻った後、車で城を一回り。(写真1〜4) 私にとって、この城の主役は家康の六男忠輝である。友人に忠輝の熱烈なフアンが居て、その友人の影響で、春日山城の帰途、上越市の福島城を訪ねたことは「百名城」の記録に書いた。忠輝は福島城からこの高田城に移り、その後、有為転変の後、幽閉先の諏訪高島城にて生涯を閉じる。忠輝の本当の実像を我々は知る事が出来ない。友人も私も隆慶一郎の「捨て童子 松平忠輝」で活写されている彼の活躍の幻に酔っているだけだ。どんなヒーロー振りか?スッカリ忘れたので再読の積りでアマゾンに頼ると、送料別で1円で販売されている。この直前に今後、Yさんにインプットしてもらいたく司馬師の「越前の諸道」をアマゾンから1円で購入し送付したばかりだ。これらの名著が1円とは!たとえ10倍、100倍でも我々はありがたく買うだろうに。
 
 
 
 
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写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

 
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 高速道路の山と川
 今回のドライブも絶好の快晴に恵まれた。関越、上信越、北陸の各高速道路は豊富な残雪を残す山々が左右に現れ、二人はその比定に忙しかった。曰く、妙義山、浅間山、立山、剣、毛勝、上越国境の山々、妙高三山、そして、白山。
 中央高速も山々を楽しめる道だが、北陸道はさらに日本海に流れ込む数々の急流も横切っていく。ざっと、姫川(糸魚川市を河口とする。「糸魚川という川はない」と、初めて知った。丁度、吉川市に吉川はないと同じだ)、黒部川、常願寺川、神通川、二級河川犀川、庄川、小矢部川、手取川。(九頭竜川は越えたのか?)この川達の経歴調査は、今後の楽しみにしよう。

 帰途は青春の歌声を
 帰途、白山市の美川駅を通った。Yさんが云う。「ここは浅川マキの出身地だ」エッ?私はこのシャンソン歌手の大フアンだった。銀座や新宿のシャンソン喫茶は勿論、日劇ミュウジックホールに客演した時も追っかけをしたくらいだ。ミュージックホールの華やかな舞台でもトレードマークの黒一色のドレスで自分だけの世界を歌い切った彼女の雄姿を、半世紀過ぎた今もマザマザと思い浮かべる事が出来る。しかし、半世紀前、私は若かった。Yさんは私よりさらに若い。浅川マキを知っているの?知っているどころではなかった。レコードを買い、それをテープに落とし、今日も車に積んでいるのだ。で、二人、暫く無言で懐かしい彼女の声に耳を傾け、我々の青春に思いを馳せた。

 彼女のテープが終わると、Yさんは新しい番組に切り替えた。Yさんは学生時代、白山の山小屋でアルバイトをした。数年続けてすっかりベテランになった。仕事が暇の時、Yさんたちは集まって酒を飲んだ。飲んで歌った。歌はY歌もあった。女性のメンバーもいたが、当時は今のようにセクハラなどと世知辛いことは誰も言わず、皆、大らかに楽しんでいた。
 その、数十年前の歌声が今発見されて、この車内で聞く事が出来たのだ。若い男性たちが適度なアルコールに声を限りに声を合わせる。同じ歌の繰り返しになってもその情熱は尽きることがない。そのエネルギーに圧倒されて我が家まで心地よく送ってもらった。
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      ■133 鮫ケ尾城  
      (訪問日 平成30年4月22日)

       スタンプ設置場所
         「斐太歴史の里総合案内所」


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 ホテルの朝食をゆっくり食べて、先日、古河城で仕入れた電子タバコも一服して、店が開くころを見計らって白山市安田町の桶和饅頭店に車を走らせ、名物の「きびだんご」を土産に仕入れる。Yさんは加賀や能登は地元なので詳しいのだ。城下町には古い歴史を持つ和菓子の名店が必ずある。この店も、日本有数の城下町金沢が誇る名店だが、地味な店構えで案内がなければ味わう事が出来ない銘菓だった。

 13時、斐太歴史の里駐車場に着く。山道を少々登ってスタンプが置いてある案内所へ。(写真・1、2)
今日は日曜。絶好の行楽日で、地元のシルバー連の「史跡めぐり」の会員で山小屋風の案内所は満員だ。(写真・3)スタンプを押し、無料の豚汁を振舞われ、若い「史跡めぐり」の引率者の案内を聴き、シルバー連の夫人から差し入れられた「菊芋」(写真・4)の漬物に舌鼓を打った。

 鮫ケ尾城。このオドロオドロシイ名の城も、申し訳ないが、名前すら聞いたことがない。
国指定史跡なのに・・。ただ、城の名前は知らないが、ここで戦った謙信の二人の養子、景虎と景勝については勉強したことがある。「百名城」の春日山城を訪城時、「御館」も見た。
何の防御もない平城の印象があった。そこでの戦いに敗れた景虎はこの鮫ケ尾城に立てこもったが敗れ、ここで自害したのだ。
 ここから見る城は案内図を見るまでもなく、数々の堀切、郭が並ぶ起伏の激しい山城だ。(写真・5)本家の春日山城はジックリ時間をかけて勉強した。健脚のYさんをもってしても
それこそ二の足を踏むだろう。と、早々に決めて、駐車場までヨタヨタと退却した。

 尚、この城のスタンプ設置場所は12月―3月は「神の宮温泉かわら亭」と公式ガイドブックにある。この設置場所の方が再訪問の興味がわく。
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写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

 



     ■134 増山城 
      富山県礪波市増山  続百名城訪城第一城
      (訪問日 平成30年4月21日)

       スタンプ設置場所「砺波市埋蔵文化センター」


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 早朝5時、迎えに来てくれたYさんの車で出発。関越、上信越、北陸自動車道路を砺波でおり、流石、Yさん、迷わず「増山城」に着く。先ず、「増山陣屋(写真・1)」に入る。案内図は壁に沢山貼ってあるが、無人。スタンプもない。スタンプの代わりに、スタンプのシールが沢山置いてある。喜んで貼ったけれどこの方がコストがかかると余計な心配をする。
 後で気づいたことだが、スタンプ設置場所は「砺波市埋蔵文化センター」だと、「公式ガイドブック」に明記されている。かなり離れた場所だ。ここのシールは初心者の我々に対するサービスなのだ。今後、ここ同様、足が不自由で、且つ、高齢な私には登城不可能な山城の百名城が目白押しで、「続百名城訪城記」は「続百名城スタンプ集めの旅」のタイトルとなりかねない。スタンプ設置場所の記録に気を付けよう。
 少し離れた城の入り口まで車で送ってもらい、登り始める。が、すぐに悟る。ここは山城だ。それも、「国指定史跡」の立派な山城だ。私の壊れた足ではとても本丸などへ辿り着く筈がない。写真・2の場所で私は待ち、Yさんに登ってもらう。ざっと一回り、Yさんの駆け足でもってしても30分かかったのだ。すっかり意気消沈して車に戻り、次に向かう。

写真・1

写真・2
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 これが、「続百名城訪城記」の最初、幕開けの城だ。
「続百名城」は2018年4月6日(シロの日)に選定された。そのリストは直ちにエクセルに落としたが、訪城開始は各城のスタンプが完備する2019年4月6日(シロの日)以降と決めていた。
冒頭の「続百名城」のリストを分類した結果を記入してみると、
1 行ったことがある城 31城。
2 行った記録はあるが記憶が薄い城 18城
3 訪城してないが名前は知っている城14城。
4 名を知っているような知らないような・・の城 4城
 5 全く名前も知らない城  33城
 と、なり、この私をもってしても名も知らぬ城が知っている城とほぼ同数ある。

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別所のたけのこ

 そもそも今回のツアーの目的は城ではない。Yさんの故郷金沢の「たけのこ」を賞味することなのだ。昨年来の計画で、Yさんの故郷の友人からの「たけのこ料理が始まった」の報せを待ちかねての旅なのだ。14時近く、予約してある金沢市別所町「竹の子めし 高野」(写真A)に入る。竹の子の刺身(写真B)、天麩羅(写真C)、筍ごはん(写真D)などを堪能した。

金釼宮
 堂々たる神社。境内にある「義経腰かけ石」は、将来、義経の平泉への道を研究するための資料となる。さらに、今、友人に付き合い紐解き始めた「奥の細道」旅行中の句とある「芭蕉句碑」(写真E)も、柞原集やら小松市の句碑やら、調べだせばキリがなくなりそうだ。
で、次の鳥越城へ向かう。

写真A 写真B 写真C 写真D 写真E
  
  


          ■136 鳥越城  
    スタンプ設置場所 白山市立鳥越一向一揆歴史館
    (登城日 平成30年4月21日)


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 増山城、金釼宮を終え、車を鳥越城へと走らせる。車は山道をかなり詰めて鳥越城の本丸直下の駐車場まで行ける。(写真・1)本丸には櫓門(写真・2)が復元され、説明版も行き届き(写真・3)井戸も見ることが出来(写真・4)、カタクリの咲く山道(写真・5)も適当にあり、久しぶりの山城見物が出来た。本丸からの城下も、Yさんの見事な写真で見る事が出来た。(写真・6)
 さて、スタンプ。幸い、設置場所の「一向一揆資料館」はすぐに見つかったが、滑り込んだのは17時を回っていた。帰りかけるスタッフに頼み込んで、スタンプを押すことは出来たが、館内を見ることは出来なかった。しかし、本丸への登城口脇に立つ碑「一揆敗れて山河あり」(写真・7)は、たった一つの「碑」でこの城の歴史が持つ一揆の凄まじい戦いとその凄惨な終末を垣間見せてくれた。

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6

写真・7

***  鳥越城とは?「国指定史跡」の城に対して誠に申し訳ないが、今まで、全く名前も知らない城だった。この城は多くの他の城と違い、城主はたとえ武士であっても城を武士としてでなく一揆の指導者として築いているようだ。九州島原の天草四郎が立て篭もった「原城」を思い出すが、私は島原城は百名城のよしみで訪問しているが原城へは残念ながら行ってないのだ。原城は今回の「続百名城」にノミネートされているが、いつ、行けるかなー。
 一向一揆についても知ることは誠に少ない。かって、歴史上不明な点があれば、司馬師の「街道をゆく」に頼った。今、パソコンで引けば何でも解る時代と思って、師の本を本棚に飾ったままにしていた。久しぶりに、その「18 越前の諸道」を引っ張り出して読み耽り、ようやく、概念をつかむ事が出来た。ありがたや、ありがたや。
 この日は、数々の合戦の舞台となった手取川沿いの道を上り、下り、渡り、渡り返して、小松市郊外のビジネスホテルに一泊。Yさんも自分のホームであるキャンピングカーに敢えて泊まらず、身障者の私に付き合い不本意なホテル泊。しかも、「心配だから」と同室を志願してくれて、数年ぶりの旅の宿を無事過ごした。
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    ■138 越前大野城  
      訪問日 2018年11月18日 
      スタンプ設置場所
      「越前大野城一階」


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 昨夜は敦賀に泊まった。ホテルの部屋で、買い込んできた蟹でパーティーを始めた。
 今回はYさんに加えてY夫人が同行してくれている。夫妻とも石川県の出身。日本海の蟹料理はお手の物なのだ。香箱蟹の身を上手にほぐし出してくれる。私は、手も足も出ない、いや、出さないで味わうだけ。
 今回の旅は夫人の同行を得て、日本海沿岸の独特の食べ物を味わう事が出来た旅だった。
 二人の買い物は、道の駅?否。コンビニ?否。地元のスーパー?ピンポン!そこで買う肉厚のサバ寿司。堅豆腐。お菓子売り場の「青ねじ」、「すはま」などなど。私が初めて名を聞く北陸の主食・副食・オヤツ。を堪能した。
金ヶ崎城案内板。南北朝の
激戦もこの城であったのだ。
金ヶ崎城遠景。
あそこまで登れないのだ。
敦賀湾遠景。歴史を感じる。
 

 宿を出てすぐに「金ヶ崎城」。信長の敗退の時に、藤吉郎が「殿」を買って出た場面で我々にはなじみ深い城だ。もっとも、案内板には南北朝時代の端緒となる恒良親王捕縛の城としても案内されていた。ここも足が出ず、入口で我慢。
越前大野城が小さく写っている。
肉眼ではとても大きかったのに。
内山良休の碑。 自動販売機もどこか
あかぬけている。
これぞ大野城

 日本海沿いの変化に富んだ国道8号線を越前大野城へ。スタンプ設置場所が「大野城一階」とあるので、丸岡城の記憶が重なって、久しぶりに天守閣に登れると期待した。
 なにしろ、「続百名城」は縄張りも定かでない「山城」に次ぐ「山城」で身障者に成り果てた私は、スタンプハンターに成り下がっているからだ。
ところが、何と、この城も駐車場は山麓。山上の天守閣までは見上げるような直登の階段を登らねばならない。ここも、スタンプゲットは若い二人に任せ、私はよく整備された下の休憩所で日向ぼっこをし、案内板で築城者金森長近や長く藩主だった土井氏の業績をユックリ読みながら二人を待った。
大野城から。
遠方に白山が見える。
このマンホールに気付いて
写真に収めたYさんはエライ。
これぞ大野城 例によって私は下で待つ。
気持ち良い小春日和。
城を往復してきたY夫人と。
 

 帰路は白山が見える数少ない場所の西山展望台を訪ね、Yさんの白山バイト仲間が経営する食堂で名物の「スープカレー」、珍魚アオハタのマリーネなどを御馳走になって、「満腹・満足」で帰宅した。
白峰の西山展望台で
白山をバックに
白峰の田舎食どう「忠治郎」で昼食

 



     ■139 佐柿国吉城  
      訪問日 2018年11月17日 
      スタンプ設置場所
      「若狭国吉城歴史資料館」


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 この城の住所は「三方郡美浜町」。かって、「古代史同好会」のツアーで展望台からの三方五湖の絶景に息をのんだ強烈な印象のある場所だ。しかし、佐柿城となると全く知らない。
もっとも、「佐柿城」の名は、文献に一度だけ登場するので仕方なくつけているのだとはこの歴史資料館の受付氏。金のかかった資料館だ。美浜の財政を推測してしまう。

 「ガイドブック」を参照しても若狭守護武田氏の重臣粟屋勝久の築城とあって、粟屋氏も初めて聞く名だ。辛うじて、数度にわたって撃退した朝倉氏の名でこの城の歴史に参加できる位だ。城に籠って勝てるのは援軍があってこそと読んだ。この城の場合も、恐らく信長などの援軍があってこそと思うが。
山城へはYさんに行ってもらう。往復1時間。 絶景だなー。
難攻不落の城と解るな。
 こんな無縁な城を身近に感じたのは、スタンプ設置場所「歴史資料館」の入り口に貼ってあった「国吉城と水戸天狗党」の展示のポスターを写真に残してからだ。
 水戸の天狗党が何故ここに?
 天狗党についても私は名を知っているだけで何も知らない。ウイキペディアはその発生から活動の盛衰を丁寧に説明してくれる。そして最期。ウイキペディアを引用する。『越前に追い詰められた天狗党は敦賀で降伏。関東で天狗党がもたらした惨禍を良く知る幕府軍は彼らを極刑に処す。「天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された」
 数字が具体的で残酷さが迫ってくる。
 このような血なまぐさい話は、当時、日本中で起きていたのだろう。
 維新の時代、いったいどのくらいの人数が死に至ったのだろう。
そして、太平洋戦争。この「戦争」を知る世代も少なくなっていく。どうか、無駄な死がない世界が続きますように!
スタンプ設置場所
「若狭国吉城歴史資料館」
水戸天狗党
企画展のポスター
美浜町は金持ちだ。
立派な歴史資料館に
スタンプ台。




 



     ■140 玄蕃尾城  
      訪問日 2018年11月17日 
      スタンプ設置場所
      「余呉湖観光館」


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  米原の鎌刃城から国道8号線、かっての北陸道を下って余呉湖へ。琵琶湖には度々行くがこの余呉湖は見たこともない。湖畔の観光館でスタンプゲット。但し、玄蕃尾城は、このスタンプ設置場所からかなり離れている。入口を通り過ぎ戻って探し当てた。ここも山城、登城ははなから諦めて、次の目的地へ走り出して、由緒ある柳ケ瀬トンネルを越えたら、そこに城への「上り口」の案内板が建っていた。次回に来よう。
 
 「玄蕃尾城」の名もまた初めて聞いた。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣に使用した城と云う。柴田勝家の名は良く聞くが・・、と、ここまで書いて2か月、今日、2019年1月24日迄このページはこのままだった。理由はいろいろあるが矢張り勝家の人物像を知りたかったからだ。あの恐怖の魔王信長の筆頭家老として不動の地位を全うしたこと。26歳年下のお市の方を嫁に迎え、最後は娘三人は敵に送ったが、夫婦二人で自害したこと。

 「困った時のウイキペディア」でも通り一遍。昔なら「困った時の司馬師」なので、久しぶりに「街道をゆく」を紐解く。勝家につき、好意的に触れられてはいるが矢張り秀吉の脇役としてだから、数行だ。司馬師の他の著作では?、と、ここで思いついて、パソコンで「柴田勝家 司馬遼太郎」で検索すると16700件がヒット。「新史太閤記」や「夏草の賦」他が出てくる。そこに「お市の方」を加えて検索しても5000件以上がヒットして永井道子「流星」などの参考書がリストアップされる。これではキリがない。

 「柴田勝家は名将であった。相手が天才秀吉だったという「運」が悪かった。お市の方とはどうして結ばれたか、今になっては解らないが、仲睦まじい夫婦として最期を遂げた」で満足して次の城へ行こう。



余呉湖観光会館全景の写真は
写しそこなったがスタンプ台は完璧。


読み難いが、通り一遍ではない
ことが書いてある。





 ■141 郡上八幡城  
      訪問日 2019年3月29日 
      スタンプ設置場所
       「郡上八幡城一階」


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***  
 遠藤姓について

 郡上八幡城の城主は遠藤氏であった。私の姓も遠藤である。遠藤という姓は、有名人が少ない。歴史上では遠藤武者盛藤が知る人ぞ知る遠藤姓の数少ない有名人だ。彼が、人妻に横恋慕し、彼女に夫を殺すと告げる。彼女(名前を袈裟御前という)は困り果て、夫の寝床に自分が入り、身代わりとなって殺される。この悲劇は多くの作家たちが、文学や絵画に残している。菊池寛の原作を映画化して、カンヌでグランプリをとった長谷川一夫・京マチ子主演の「地獄門」が代表作だ。ただ、この遠藤武者はこの事件で出家をする。文覚上人となって、源頼朝の旗上げの説得に多大な影響力を与えた。
 現在の遠藤姓の有名人は?遠藤周作の時代も過去となった。相撲の「遠藤関」の健闘を祈るのだが。
 城主遠藤氏を我が仮想の師、司馬遼太郎氏は「街道をゆく 郡上・白川街道」の中で、「歴代の城主をながめてもべつだんすぐれた人物は居そうにない」という。
司馬師のいつもの暖かさに似合わず、ここに限って、冷たく、切って捨てられて、この文を最初に読んだ時は、暫く、落ち込んだものだった。でも、今、読み返してみるとそれほど酷評しているわけではないのだが・・。
(蛇足 幕末、郡上八幡の藩主であった青山氏の江戸屋敷跡が現在の青山墓地である)
山内一豊の妻

 城へ登る途中の神社(寺だっけ?)に「山内一豊と妻の像」が建っている。天守閣本丸には、記念写真用に二人の人形まで置いてある。この城とどういう関係かと疑問に思っていたら、一豊より有名な彼の妻、「千代」は初代藩主遠藤盛数の娘の由。また、母は奇しくも美濃金山城に登場した、和歌の名家、東家の娘で「古今和歌集」を引き継いだのだと。
 司馬さん、千代を育てただけでも遠藤家は立派な功績を持っているではないですか。
 千代さんの人形から顔を覗かせて記念写真。(左写真)
同期も齢を取る

 城主が遠藤姓のゆえに、今まで数回この城を訪れている。止むことない雨の中、立ち去る人もなく夜を徹しての踊る祭りにも参加した。駐車場は城の直下なのだが、常人には何でもないそこから城までの登りが、車椅子を卒業したてで杖に頼る老人には辛い。
 同行の二人は何れも同期の桜。そろそろ人の世話など出来ない齢になってきている。それでも、私を支えて手摺りのない石階段を登って天守閣へ。(下写真、左)しかし、天守閣への城内のスタンプ捺し場は、私の足では無理なのだ。元気なSに託して捺印してきてもらう。(下写真、中央&右)
郡上八幡。駐車場から天守へ Sと。 城内のスタンプ場。
スタンプ捺印の有料について

 しかし、問題は、この城は、スタンプを押す場所へは、入場料を払わないと行けない事だ。
 百名城でもこのようなケースは稀にあった。犬山城、会津若松城、もう1−2あったような気がしたが、今、出てこない。「続百名城」のスタンプ場でも今までもあった。数百円のことだからどうでもよいけれど、老人の役目と思って、私は、取られる度に文句を言ってくる。「他ではお金を取られないのになぜこの城ではとるのか?」と。
 「続百名城」のスタンプ置場は「百名城」の時と違って、非常に優遇されている。観光資源・文化資産として、優遇度・注目度が数段上がっていると実感している。城郭協会も、各地の観光協会も、お城も、裕福でないことは良く存じている。だから、お金を払っても一向に構わない。ただ、各城、マチマチなのが気になるのだが。




 ■142 苗木城  
      訪問日 2019年3月28日 
      スタンプ設置場所
       「中津川市苗木遠山資料館」


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***  
 今回は、武蔵野線吉川駅でSと、西国分寺駅でKの車と待ち合わせる。8時。府中市内の信号名に「一の宮」「本宿」などの魅力的な名を見つけながら、中央高速へ入る。曇天で、八ヶ岳も、南アも、中央アルプスもよく見えなかったが、久しぶりの長い恵那山トンネルを越えたところが中津川市。ここから、苗木に向かい(写真・1)、11時半苗木・遠山資料館着(写真2〜4)。
***
写真・1 写真・2
苗木城「続百名城」認定
写真・3
苗木城「続百名城」認定
同スタンプ
写真・4
中津川市苗木・
遠山資料館とKの車

苗木城は特異な城だ。「続百名城公式ガイドブック」の表紙を開いた第1ページにこの城の写真が単独で載っている。「続百名城」を代表する城である。
 久し振りに、「是非、見たい」と思う城であり、今の私の足での限度まで近づいて、ゆっくり見る事が出来た城であった(写真5〜8)。
 また、スタンプ設置場所の資料館の資料も、地元に密着していてとても参考になる。許可を得てケースの中の写真を撮った。無事、読めるように写った昔の書類があるので、いつか、ゆっくり読みたいものだ。(写真・9「領知(地ではない)朱印状」写真・10「苗木城石高」写真・11「武士農民の生活」写真・12「領主の生活」)
写真・5
苗木城遠景
写真・6
苗木城遠景
写真・7
登城の試みもここまで
写真・8
苗木城模型
写真・9
領知朱印状
写真・10
遠山久兵衛宛秀忠礼状
写真・11
武士・農民の生活
写真・12
「領主の生活」図
 しかし、この巨岩の上に何故城を造ったのか?あの、岩の上に立つ柱は雨風に腐らないのか?こんな狭苦しいところに居住区までつくらなくてもよいだろうに。
 山城を見て、いつも疑問を持つ、排泄の処理はどうなっているのか?ここでも疑問に思って、帰路に着いた。

 



 ■143 美濃金山城  
      訪問日 2019年3月28日 
      スタンプ設置場所
       「可児市観光交流館」

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***  
 苗木城から車で約一時間、美濃金山城に着く。そそくさと、交流館でスタンプ捺して、(写真・1)山道を城へ登る。幸いすれ違う車とのトラブルもなく、無事、駐車場に着く。
 同行の二人は、そこから山城へ。私は駐車場周辺を散策。(写真・2)城から降りてきた、一見、足の不自由そうな人と立ち話。十年以上前、足を折った。リハビリとして登りながら山菜取りに通っている近所の人の由。所望して写真を一枚。(写真・3)
 
**
写真・1
美濃金山スタンプ
写真・2
駐車場
写真・3
写真・4
森乱丸? 森蘭丸?

 駐車場に翩翻と翻る2種類の幡が多数。(左写真)青い幟には「美濃金山城跡 森乱丸」と書かれ、かの美少年の肖像入りだ。「乱丸」?地元では我々が馴染んでいる「蘭丸」をこう書くのか。何故か?交流館で頂いたパンフレットには記載はない。スマホを持っていないので、帰宅後パソコンで「乱丸」を検索すると、「乱丸」は「蘭丸」に翻訳されて、案内が並ぶ。何故かわからない。いつか分かる時が来るまで待とう。
 蘭丸の末弟、森忠政は津山藩主となる。百名城巡りの際、津山城に立派な銅像が鎮座していたのを想い出し、自分のホームページ「67 津山城」を読んでみたら。森家については、全く触れておらず、津山は妻の出身地であるとか、当時興味があった出雲阿国や名古屋山三郎について書かれていて、自分で書いたのに、すっかり忘れていたので面白く読んだ。

斎藤妙春とは?

 先述のパンフレットに「本城はこの湊町(!)に斉藤妙椿の系譜の妙春が築きました」とある。斉藤妙椿。奇しくも、今、紐解いている司馬遼太郎師の「街道をゆく 郡上・白川街道」に登場する。郡上地方の城主・東常縁がその武将としての力量を買われて下総に遠征していた留守中に、その城を乗っ取った豪族としてである。ところが、東氏は歌人としての顔も持っていた。東氏は、自分の城を占拠した斉藤氏に対し、嘆き・抗議の和歌を十首ばかり詠んで斉藤氏へ送った。斉藤氏もまた歌の道に励んでいた。早速返歌を詠んで送り、驚いたことに、返歌と共に城も領地も返した。「東氏は古今で最も高い稿料をとったことになる」と、司馬師は書いている。面白い話だ。
 
犬山城の不思議

 犬山城は「百名城スタンプ帳」の表紙を飾る名城中の名城だ。Kが行ったことがないと云うので、謹んでお供した。私は勿論、駐車場で待っている。その時、天守閣が二つ見える。
右写真.一つは国宝。もう一つは?簡単にわかりそうで解らない。ギヴアップした。

 



     ■144 大垣城  
      訪問日 2019年3月29日 
      スタンプ設置場所
      「大垣城天守」


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***  
 
天守閣

 大垣城は山城が多い「続百名城」の中ではむしろ少数派のオーソドックスな平城で、都市の真ん中にある。天守閣は国宝だったが戦災で焼け落ち、昭和34年に再建した由。どのように資金繰りをしたのだろう?また、この地域は水に恵まれている。この城は堀に囲まれていたという。しかし、水に恵まれすぎ、明治に至るも水害に悩まされた。そして今は堀の多くは埋め立てられていると。残念なことか、喜ばしいことか?
 天守閣の入り口へは駐車場から「横歩き」つまり高低差がないので、私も行く事が出来る。5−6段の階段を登って、自分でスタンプ捺印が出来る(左写真)。健常人には当たり前のことだが、身障者の私でも久しぶりのオーソドックスな城巡りが出来た。
**
喫煙

 同行三人での記念写真(写真下左)。Kと恒例の喫煙の写真。定番の儀式だが、これも久し振りである。Kはいまだに煙草を手放さない。ライターも携帯吸い殻入れも手放さない。機会を見つけては吸っている。Kと旅を始めた数十年前、そろそろ喫煙者が犯罪人扱いになり始めたころ、私も未だ喫煙しており、Kと二人で煙を吐いているツーショットを行く先々で写してもらっていたのだ。(写真下右)
スリーショット Kと喫煙
「なぜ大垣は県庁所在地になれなかったのか」

 城郭協会は、小学生・中学生を対象に毎年「城の自由研究コンテスト」を実施している。
 第17回の審査員特別賞には「なぜ彦根や姫路は県庁所在地になれなかったのか」が選ばれた。学習院中等科二年生の作であると。
 審査員の評に曰く「題材の着眼点と視点の良さがすばらしいだけでなく、調査能力も大きく評価されます」この作者が80歳になった時、つまり、私の齢になった時、どんな人物になっているか?空恐ろしいことです。
「奥の細道むすびの地」

 新暦5月16日は芭蕉が「奥の細道」に出立した日である。昨年は、その日から、「奥の細道」を毎日辿った。しかし、当然ながら、みちのくに入りかけたころ、置いて行かれてしまって、参考書は閉じられたままになった。しかし、「むすびの地」は大垣という事は、肝に銘じていた。折角、大垣に来たのだ。その「地」に車を向けてもらう。成程。多くの年配者が散策していた。本来なら、ここで一句申し上げねばならぬのだが、今、私は俳句に
背を向けている。人々の俳句に点数をつけるとは何事か!細々とした規則を勉強せねばならぬとは何事か!只々、歳時記と首っ引きで俳句を作るとは何事だ!以上。(左写真-大垣芭蕉上陸地の像)  


 



     ■146 諏訪原城  
      訪問日 2018年9月24日 
      スタンプ設置場所
      「諏訪原城第一駐車場パンフレット置き場」


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  久し振りに露天にポツンと立つ捺印所。紙一枚のパンフレットのコピーが昔から入っていた箱を共用しているのだ。それは良いのだが、今の捺印所は市役所、図書館、公民館等の立派な建物に鎮座していて、資料のパンフレットも豪華で豊富だ。少し、違和感があるが、本来、城巡りはこの待遇で充分と思う。

 ここも「山城」。諏訪原城の名はここに諏訪神社があったからだと。静岡県の「続百名城」は、他に興国寺城、高天神城。何れも寺であり天神様の神社が名前の元になっているのが面白い。



***  
 諏訪原城は島田市にある。島田は大井川の渡しで有名だ。城下町ではない。宿場町だ。
そして幕府が管理する天領なのだ。だから、大井川は県境・市境でなく、ライバルの筈の対岸の金谷も同じ島田市なのだ。

 宿場町だから色町も繁盛しただろ。我々はすぐに島田髷、文金高島田を連想する。その連想から、中村美津子歌う「島田のぶんぶん」も口をついて出る。しかし、「ぶんぶん」は関西の遊び人をモデルにした歌だそうで、この島田市には関係ないそうだ。残念でした。

 お城は入口付近を一回りしただけで、次のお城に向かいました。先に書いたように、島田市は天領だから藩主はいない。したがって、と云うのは変だが、城がなく、城下町がない。
 何か物足りない気がするが、島田市を再訪したらば、蓬莱橋で山本譲二の歌を口ずさみ、川越遺跡などゆっくり歩きたいものです。
 



  




     ■145 興国寺城
      訪問日 2018年9月24日 
      スタンプ設置場所
       「穂見神社境内(興国寺城跡本丸内)」

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 訪城してから、2019年3月に、本文を書き始めるまで半年が過ぎた。理由は、只一つ、この城を書くためには、司馬師の「箱根の坂」を再読しなければと、固く、思い込んでいたからだ。北条早雲の生涯を書き尽くした司馬師の「箱根の坂」で師は、この城をどのように書いたか?むかし、本書は読んでいる。しかし、この城についての記述は、記憶に残っていなかった。
 再度、紐解いたが、意外に、早雲が最初の城として、また、長く、自分の本城にした興国寺城についてのページは少なかった。僅かに、早雲がなぜこの地の城に固執したかを太田道灌をして読み解かせた件が、司馬師節として印象的だった。

 これを書いている今は、2019年3月。時恰も、我が江戸川の土手に、菜の花が盛りと咲いている時だ。そう、「菜の花忌」。司馬師の命日。
 一時代前は、何から何まで、司馬師一辺倒だった。新しい地名、新しい人名に接するたびに、司馬師の作品を探し求め、師の健筆での知識を貪り求めたものだ。なかでも、「街道をゆく」のシリーズは、歴史のエンサイクロペディアとして座右の書としていた。
 今は?パソコンの「検索」に次ぐ「検索」で知識を無限に積み重ねてゆく。だから、乏しい「遠藤史観」を述べることはあっても、深遠な「司馬史観」に触れる機会がなくなっている。一つの策として、「○○、司馬遼太郎」で検索して手っ取り早く司馬師の卓説を読み取ろうとしているが・・。
マスコミで司馬史観を扱う機会も少なくなった。ここで一句申し上げます。
「菜の花忌 昭和は遠く なりにけり」

  
  




     ■147 高天神城
      訪問日 2018年9月24日 
      スタンプ設置場所 「大東北公民館」

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***
  静岡県の「続百名城」は4城ある。一日で回るためには家を5時に出ねばならない。と、なると、3時に起きねばならない。と、なると、寝る時間はないに等しいので、今日は、
3城で我慢しようと、Yさんに頼んで6時出発とする。カット予定の一城は浜松城。この城は既に訪問済だし、駅に近い平城だから、いざとなれば、新幹線で一人で行ける筈だ・・と。

 久し振りに東名高速をひた走って、高天神城追手門駐車場。私はここでオシマイ。急峻な山城はYさんが登ってくれる。曰く、「疲れた」。山男のYさんをもってしても手強い山城だった。勿論、頂上の「高天神」の写真も撮ってきてくれた。が、なんでこの山頂に「天神様」が鎮座しているのだろう?しかし、そんなマイナーな疑問はこの城郭史上欠かせない有名な山城にはふさわしくない。

***

***  
 この城を訪れたのは9月24日。その訪城記にとりかかったのが11月初め。どうにも、書き難い城である。この城を廻っての攻防戦が豊富に記録されている。家康・勝頼が取ったり取られたり。したがって、城を守る将も入れ代わり立ち代わり。攻め方も守り方も、知り尽くした縄張りを充分に活かして、これぞ戦国山城攻防戦を書きつらねばならない。
***

 訪問日が日曜日だったからスタンプ設置場所が「休み」で図書館やら観光案内所やら、たらいまわしに回った。期せずして掛川市内を見学できて良かったが、高天神城は浅学菲才、且つ、実地に歩けない脚悪の身障者には荷が重い。名城に敬意を表して筆をおく。




     ■149 小牧山城  
      訪問日 2019年3月29日 
      スタンプ設置場所
      「小牧市歴史館」

    ▼画像をクリックすると大きく表示されます
   
***
  「続百名城」の城たちは、名前さえ初めて知る城が多い。城探訪歴半世紀を誇る私の自信を揺るがせるに充分であった。しかし、これらの城は「知らなくても当たり前」と、開き直る事が出来た。だが、この「小牧山城」の場合は、チョット違う。
 「小牧山」の名は秀吉・家康の名前と同じくらい日本史に興味を持つ身には常識である。
 何といっても、この二人の英雄が、直接、戦った唯一の場所だからでもある。だが、そこに「城」があったという事を考えたことがなかった。考えてみれば当たり前のことなのに、城に興味を持つ身にも拘らず、今回初めて戦場に城があると知ったことが無念・残念なのだ。

 城は、標高86Mの低い独立峰全体を城としている。車は登れない。私は下の市役所の駐車場で待つ。頂上には天守閣まがいの「歴史館」が建っていて、スタンプはそこにある。
この前の越前大野城と同じくスタンプ捺印も友人に依頼せねばならない。大野城の場合は待っている間、資料館めいたものなど時間を潰す事が出来た。しかしここにはそれがない。
 無為に二人の帰りを待ったが、二人は立派な写真を撮ってきてくれた。
***
小牧山城 小牧市歴史館スタンプ場 小牧山城石垣

名城が新しく生まれる

 ところで、資料を読むと、この城は信長によって造られ、家康が補強をした。後に、家康「誤勝利御開運の御陣跡」となり一般の入山は禁止され、江戸時代を通じ尾張徳川家の領地として管理された。昭和2年徳川家より国に寄付され同年国の史跡に指定された。
 パソコンの資料では平成16年の発掘調査結果、同28年の調査結果と、ついつい最近の情報でこの城の価値が急激に高まってゆく過程が解る。私はいささか安心する。この城の存在を知らないことを恥じる必要はないのだ。私が城の勉強をしていた時代にはこの城は世に知られていなかったのだ。
 名城の誕生は新たに築城をすることではないのだ。新たに発掘した新資料から、名城が誕生することがあるのだ。


     ■150 古宮城  
      訪問日 2019年1月27日 
      スタンプ設置場所
      作手歴史民族資料館

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***
古宮城・新城市・村社白鳥神社・亀山城

 「古宮城」と云う城の名を知っているか?知らない。この城の住所は愛知県新城市。「シンジョウシ」と入力しても出てこない。「シンジロシ」でもダメ。「シンシロシ」と入れて初めて漢字転換が出来る。で、この「新城」という城はどこにある?とにかく、無名の城だ。
 「続百名城」はこのような城が多い。訪城者の「声」の中に、「もっと案内板の整備を」という、悲鳴に近い投書があった。ごもっともだ。我々も、例によってYさんが、神社から登ってくれたが、収穫を得ずして下りてきた。(写真・1-村社白鳥神社と案内板、写真・2-案内板のアップ、写真・3-平入りの本殿と立派な高麗犬、 写真・4&5-珍しい狛犬)帰途、Yさんが近接の亀山城に登ってくれる。(写真6〜10)案内板を読むだけでも最初の城主奥平氏は上州甘楽から来たり、長篠の戦に加わったり、今、知りたいここの「新城」の城主になったり、古宮城より余程、興味を惹く城だ。「続百名城」の「続」が作られたら、是非、この城を選定してほしい。
***

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「国特別史跡」「国・府・県・市・町指定史跡」「− 無位無官」の城たち

 しかし、「案内板」や「標識」をはじめ「城の整備」は誰がやるのだろう?
第一、この城の地権者は誰なのだろう?国有地なのか?私有地なのか?以前、神奈川県の「石垣山城」は「珍しく私有地にある城だ」という記事を読んだ記憶がある。と、いう事は、「国指定史跡」の城は国有地にあるのか?「県指定」ならば県有地?「市指定」なら市有地?
 この古宮城は「公式ガイドブック」の「文化財史跡区分」の蘭が「−」つまり何の指定を受けてない無位無官の城である。こういう城は「続百名城」の中で、いくつあるか?
 13の城が無位無官である。では、残りの城は?「国指定」が60城。「府・県・市・町指定」が29城である。(合計が100城とならないではないか?どこが間違っているか?ご指摘してくれる人を待っています)
 ついでに、「百名城」の場合は、「国特別史跡」が流石の17城。「国指定」が62城。
 「県・市指定」が17城。「−」つまり無位無官の城は3城。どこか?金沢・駿府・岩国。

史跡の保存・公開の経済的問題・史跡の地権者は?

 これらの「指定」を受けると、どのようなメリットがあるのだろうか?「名誉」だけなのだろうか?「助成金」でも出るのだろうか?私が、今、訪城中の山城では杉山城、唐沢山城など、「国指定」の認定を受けるために学術的な発掘・調査をし、詳細なデータを作成し、申請する苦心が書かれている書籍を読む事が出来る。
 このデータ作成・申請にも、当然、費用が掛かる。その金はどこから出るのか?認定後の整備にかかる費用はどこから出るのか?おヒマな老人たちのヴォランティアに頼るのか?
 ヒマでも身障者で役に立たず、「金」のことばかり気にしている私は大いに関心があるのである。そう、この地の地権者は誰か?についても。



     ■151 吉田城  
      訪問日 2019年1月27日 
      スタンプ設置場所
      吉田城鉄櫓内


    ▼画像をクリックすると大きく表示されます
*** 吉田城か?豊橋城か? 伊良湖か伊良子か?

 この城は何度も来ている。新幹線が停まる駅から歩いて行ける城だから、出張の途中で気楽に寄れる。また、団体旅行でも豊川やら伊良湖岬への途中で寄ることが多い。念の為、伊良湖とはどんな湖水かと検索してみたら、伊良「子」と出る。どう違うのか?教えて下さい。
 豊橋にあるのに「吉田」城とは、これまた不思議だが、これは、以前、この地は吉田藩だった由で、右写真に曰く「明治新政府が吉田の名を許さなかった」由。徳川の影か。
 で、団体の時は、駐車場からゾロゾロ歩いて、鉄櫓を見て、時間までにバスへ戻り、それ以上でも以下でもない城見物をする。この城は文化財史跡区分のない無位無官の城である。
 単独の時は、それに、豊川への北御多門跡を降りてみる。海に囲まれた国なのに、日本では海から直接、城へ入れる海城が少ない。川から直接入れる城も貴重だ。吉田城のお隣、岡崎城も、矢張り、城から川への出入り口があってそこは私のお気に入りの場所である。
***


 この旅では、アマゾンで買ったカメラのバッテリーが早々にアウトとなって、幸か不幸か、写真はYプロ任せになった。流石Yさん、この川への門を実物通りに写してくれた。この写真一枚で今回来た甲斐があった。(写真・2)
 他の写真・3-「旧藩祖豊神社」と読めるが、検索では誰のことか解らなかった。
        「旧藩祖豊神社」ではなく「旧藩祖豊城神社」ですね。
        「豊城神社」などで検索するといろいろ出てきます。(注釈・Y)
   
 写真・4-豊かな豊川。写真・5&6-スタンプ設置場所「鉄櫓」。


写真・2

写真・3

写真・4

写真・5

写真・6


     ■152 津城  
      訪問日 2019年1月27日 
      
      スタンプ設置場所
       高山神社社務所


   

三重県について
 昨日、北畠神社の帰途、夕暮れ・降雪の中、津城を一回りして四日市のホテルに入った。積もる雪もYさんの介添えがあるので近所の居酒屋まで出かけて海の幸で夕食をした。
 ここは、三重県。昔、全国の都道府県に全て宿泊したか?と、考えたことがあった。全て泊まっていた。しかし、三重県の宿泊地は暫く出てこなかった。ようやく、あー、松坂城だ、と、思い出した。組合の旅行などで、鳥羽で牡蠣を食べ、鳥羽城に寄ったこともあるし、伊勢神宮にも度々参拝している。しかし、それらの地名と三重県が結びつかないのだ。ましてや、津に城がある認識すら薄かった。
取りあえず「三重県」について。伊勢・志摩・伊賀・そして紀伊の一部と云う錚々たる国々を纏めたら、「三重」と云う歴史的には馴染みのない県名になってしまったという印象。
損したね、三重県さんよ。えっ?神奈川県人が大きな事いうなと?相模と云う立派な名を持ちながら、あんな小さな神奈川という港町の名を県名にしている人に言われたくないね、か?そりゃあ、ごもっともだ。

 「津」について
 津の旧名を「安濃津」といい、中国の史書によれば、博多・坊津と並ぶ日本三津の一つだとのこと。しかし、1498年の明応の大地震により津は壊滅的被害を受けて港の機能は失われたとのこと。ただ、「中国の史書」は1561年に書かれているのだけれど・・。
 「伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ」と云う有名な歌詞がある。「津が伊勢で持つ」のは解るが、あの有名な伊勢が何故、「津で持つ」と、「津」の力を借りねばならぬのか?お伊勢参りが盛んになった時代は、前述の如く、港町の機能はなく、単なる宿場町の一つでしかなかったのではないか。
 お伊勢参りの精進落としの場所だったのか?それにしては、伊勢と少し離れすぎてないか?いや、神奈川県の大山参拝の精進落としが江の島で盛んであったことを考えれば、十分肯けるではないか。
 しかし、「お伊勢参り 精進落とし」で検索すれば、日本三大遊郭の「古市」が一番に出てくるので、津の遊郭説は不成立か?では、何故「伊勢は津で持つ」のか?
降参です。御存知な方、教えてください。

津城について
 写真(下の2枚)に見るように、昨日来の雪が残り、それが絶好の口実となって、このどこにでもありそうな四角な平城の探訪は入口だけにする。築城はご存じ、
築城の名手と云われた藤堂高虎。彼が何故「名手」と云われているのか?
 これについて遠藤晶土氏は、「百名城今治城紀行」のなかで、『高虎は山城を縄張り(設計)をしない。既に平和の時代の到来を見越して、城の役割を「戦闘」から「統治」へと、切り替えたのだ』と、喝破している。自分自身の「説」だから大いに納得する。奇しくも「津城」は今治城と並んで日本三大海城とする説もあるようだ。
 次々と主君を変えながらも、75歳、江戸の藤堂家藩邸で大往生を遂げた稀有の出世人、高虎の生涯は、検索で「高虎 年表」を読むだけでも十分だ。
解らないのは写真にある(下左写真)高虎の歌「しらはたや 花咲く山の 一備え」の意味だ。検索では「関が原の戦いを忍んだ。白旗とは徳川源氏の旗の意」とあるが・・。
 そう聞いても、何故、ここにあるのか、ワカラナイ。これも、どなたか教えてほしい。
 ついでに、もう一つ、津市には長野城・細野城・霧山城などの「国史跡」がある。津城は「県史跡」だ。国より県の方が百名城に入るって、おかしくないだろうか?
▲写真をクリックすると大きく表示されます。
スタンプ設置場所「高山神社
 (写真3枚)ここの所、スタンプ設置場所が軒並み、神社だ。スタンプ設置はともかく城に神社は付き物のようだ。これに関する一考察も、いずれしてみたい。今回は「高山神社」の鳥居が伊勢神宮に倣って「神明鳥居」であり、本殿も、同様に「平入り」だと伊勢のお膝元では当然のことを確認して、満足しよう。
 何故、藤堂神社でなく高山神社なのか?高虎の法名に由来する由。解って、満足。






     ■153 多気北畠氏城館  
      訪問日 2019年1月26日 
      
      スタンプ設置場所
       北畠神社社務所


   

道中 いろいろな道
 Yさんの車に迎えられ、7時に家を出る。道中順調に9時前に東名大井松田出口付近。絶好の天気で、念願の富士の全景が写せた(写真左)。
 私は貧乏性でドライブも助手席にただ乗っているだけだと、時間が勿体なくて仕方がない。何処までも気配りが働くYさんは心得ていて、今日は氷川きよしのテープを流してくれる(写真中央)。
 豊田JCTで東名高速から「伊勢湾岸自動車道」に入る。四日市で名古屋から大回りしてやってきた「東名阪」に入り津の伊勢・関ICで「伊勢自動車道」。「勢和多気」でようやく高速道路を降りる。13時半。降りたところに「コケコッコ共和国」の看板。Yさんが見逃す筈がない。そこで昼食(写真右)。
▲写真をクリックすると大きく表示されます。
 そこから国道368線を遡る。杉の美しい山の中腹をくねくねと昇る。成程、地名が「美杉町」だと感心しているうちに、道は一車線になる。これが国道か!と悲鳴を上げる酷道だ。たまに来る対向車と譲り譲られ、待ち待たせ、これだけは国道らしく律儀に立っているカーブミラーを頼りに「峠」の案内板の前で、ようやく一服。

道中 伊勢参りの道
 しかしこの案内板(写真右)は実に印象的だ。お伊勢参りが盛んなころ、大阪は江戸と同格の都市だったろう。その地からのお伊勢様への「伊勢本街道」だ。旅籠の名前、「大坂屋」、「河内屋」「大和屋」などに当時の殷賑が偲ばれる。この道を歩くことを思えば、運転の苦労など何ほどのことはない。(私が運転したわけではないけれど)
 この368号線をもっと知ろうと、検索をしてみた。なんと、YOU TUBEが出てきて、数人のドライバーが悲鳴と一緒に走り切った動画を見る事が出来た。いや、パソコンとは何でも解る恐ろしいものだと、また。勉強した。

道中  「タニシ殿」
 「お伊勢参り」と云えば想い出す歌がある。50年前、いや、正確には60年前、山岳部でテントのみならずコンパの時に高唱した歌だ。「タニシ殿、タニシ殿、お伊勢参りにごじゃらぬか。イヤデソロ、イヤデソロ。丁度去年の夏の頃、おドジョウ様に誘われて、チョロチョロ小川を渡るとき、・・」ここまで書いて、フト、「検索」をしてみると、これまた、詳しく全歌詞が記載され、YOU TUBEで聞く事さえ出来る。で、ここでやめるが、本当は、この歌が終わった後、全員が奉じるお経「一寸は入るるに足らず。二寸は憎からず。三寸は・・」を書きたかったのだ。しかし、パソコンでさえ自粛しているのだ。80の老人が、わざわざ紹介することもあるまい。

道中  龍神ちゃん
 いや、「お伊勢参り」からだいぶ寄り道をした。が、もう一つ寄り道を。写真(左)のワラでつくられた竜神だ。Yさんが苦労して写してくれたささやかな説明の写真(右)によれば、名は「龍神ちゃん」作製親は「飯南町仁柿活性化創造委員会」の由。地域活性化へのご努力を多としたい。これも「仁柿」で検索でき、そこで三重新聞に掲載された記事も読めた。
 こうして寄り道を重ねて、ようやく「美杉ふるさと資料館」(下の写真)に着いたがスタンプはここにないと。折角だから見学をしようとしたら、この老齢の身障者に向かって、老齢の係員が「靴を脱げ、スリッパを履け」と口喧しい。こっちが悪いのを棚に上げ、多いに気分を悪くして、そこから400メートル先の北畠城館跡に、ようやく辿り着く。
北畠顕家 北方謙三
 「北畠」と云えば教科書に載る「神皇正統記」を書いた北畠親房が有名だが、私にとって北畠といえば、北畠顕家だ。親房の息子として生まれた彼は、遠く、陸奥に赴任。そこから南朝の軍を率いて関東を駆け抜け、京の都まで連戦連勝。足利尊氏を九州まで追い落としたが、弱冠21才にして不慮の戦死。
彼にもう少しの生命があれば、或いは日本の歴史が変わっただろうという天才だ。
彼の爽快な人生を私は北方謙三の「破軍の星」で知った。北方氏は他にも「絶海に死す」で藤原純友を、「武王の門」で九州を制覇した懐良親王などを、作者の人柄なのだろう、気持ちの良い武士の群像として描いてくれた。北方氏が途中から中国史に取り組み「三国志」「水滸伝」などの大作に取り組み、洛陽の市価を高めてしまったのは、日本史で手一杯の私にとっては大きな痛手である。将門や、ニギハヤヒ、ヤマトタケルなど、彼の筆で読みたかったヒーロー達は沢山いるのにだ。

北畠城館跡 北畠神社
 北畠神社には満足した。なんといっても顕家の銅像が主役として祀ってある。(写真下左)(親房がないのもよい)そして、顕家の弟、顕能、が父・兄と共に祀られているのが良い。私はこの、顕能卿の名を初めて知ったが、兄と同様、優れた武将であったと神社のお由緒書きに絶賛されている。若年ながら伊勢国司に任じられ、この地に城館を築いたとされている。残念ながら、彼もまた若くして花と散った。
 「城館」はこの神社付近と考えれば良いらしい。(写真上右)詰の城、更に戦時の詰の城を見なくても、車で乗り付けられるこの神社境内に、石垣(写真下左と中央)や建物礎石(写真下左 この文章「考えられています」でなく「考えています」が良い)などがあるのだ。久しぶりに城見学ができた、と、ささやかに満足した。
北畠神社
 神社としてもこの神社は面白い。先ず、鳥居。伊勢神宮の本拠地でありながら、鳥居に貫が柱から出ている明神鳥居を用いている。周辺を走って、「流石、(貫が柱から出ていない伊勢神宮系の)神明鳥居の神社ばかりだ」と感心したにも拘らずだ。次に本殿。これまた、平入りの伊勢神宮に逆らって、「妻入り」になっている。そして、「別格官幣社」の社格。
「村社」だったが、明治14年一躍「別格官幣社」に列せられる、と。(写真下3枚、)
皆様に教えて頂きたい謎
 南北朝の争いの結果、現在の皇室は北朝系と記憶している。しかし、それにしては南朝は抹消されていない。それどころか、南朝の英雄、楠木正成の銅像が皇居前に長年立ち続けている(1904年、高村光雲他作)。この神社も南朝の復権の時代に乗って別格官幣社になったたのだろうが、この日本人の心理は日本人ながら謎である。
 また、維新後、勝者の京都は、敵国東京へ遷都を決めた。この経緯を書いた所があるのだろうか?読む機会がなかったので、誰か教えてほしい。
 寛永20年(1624年)この神社を創始した鈴木孫兵衛家次。この人を「検索」しても、これだけ何でも教えてくれるパソコンに詳細が出てこない。これも不思議だ。
 皆様に下駄を預けたところで、ようやく、本編を終わりに出来た。
 いや、未練がましくもうひとつ。上の中央写真のをもう一度見てほしい。鳥居の左に屋根付き、囲い付き案内板がある。ところが、アップすると真っ黒で何が書いてあるか全く不明。
神社に電話すれば良いのだろうが・・。あー、これで気が済んだ。オシマイ。





     ■154 田丸城  
      訪問日 2019年4月20日 
      スタンプ設置場所
      「玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)」


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***
 6時に家を出たが、首都高で早くも渋滞。東名に入ったのは8時近かった。家まで迎えてくれたYさん曰く「満月の日は渋滞する」と。10日後には元号が令和になるこの頃は、何をしても「平成最後の」という枕言葉が付く。「平成最後の」満月であり、城巡りである。
(訪問日も今回に限って、平成31年とした。元号などない方が余程スッキリするのに、この機会に元号廃止論が表に出てこないのが不思議だ)
 但し、渋滞は「平成最後」ではない。これから未曾有の10連休。月末の渋滞は思うだにオソロシイ。今回の旅はY夫人の参加を得た。ドライブの時間をより楽しくと、音楽テープの選択は事前に3人のリクエストに依った。ところが、夫人のリクエスト、ミスチルの桜井さんの歌がかかると、Yさんが眠くなりだした。ドライバーが眠っては仕方がない。折角、公平で良案と思えたなこの案も、途中で実行できなくなった。

 田丸城のスタンプ捺印所では、質・量ともに豊富な無料のパンフレットを頂いた。田丸城のみならず、玉城町の資料も写真集も興味深かく帰宅後眺めた。
 但し、田丸城の歴史そのものは、織田信雄が養子に入った先の北畠一家を謀殺したり、その信雄の金奉行が放火して城を全焼させたりと少し陰惨だ。町で受領した資料に、隠さず書いてあることだが。その後も田丸藩はなく、田丸城の城主は紀州藩の家老が勤めた。

 しかし、この城は私にとっては印象に残る城なのだ。車止めまで同乗し、本来なら、そこで待つ筈が、緩やかな坂道を登り始め、虎口跡(写真・1)。この案内板は平成15年に建てられている(写真・2)。この城もつい最近蘇ったらしい)を抜け、本丸まで歩き通し(写真・3)、更に、天守台跡まで、手すりもない石の段々を登ってしまったのだ。
 写真を見れば(写真・4)、石段は約15段。段差もさほどでもないない。だが、私にとっては大仕事。特に下りは、後ろ向きになり、両側をYさん夫婦に支えられ、ようようの思いで、帰還した。
 Yさん夫妻は若い。私を支えても腰を痛めなかったそうで、安心した。有難うございました。久しぶりに、天守閣がなくても、天守台まで登り切れた城なのである。(写真・5)


***

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4

写真・5




     ■155 赤木城  
      訪問日 2019年4月20日 
      スタンプ設置場所
      「紀和鉱山資料館」


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***
 
 先ず、上記のスタンプ設置場所にて捺印。(左写真)鉱山については「紀州鉱山」のパソコン記事が資料館より解りやすかった。

 「紀州鉱山は、奈良時代頃から盛んに銅を採掘していたと伝えられる、紀伊半島随一の巨大鉱山です。近代鉱山としての設備を整えたのは西暦1934年の石原産業による再開発以降で、以来西暦1978年の閉山まで44年間、最大3000トン/年の銅を産出しました。」
この記事は最盛期の写真や現在も続く、「負の遺産」についても要領よく説明してくれる。

 赤木城はそこから車で少し走る。駐車場で見上げる本丸は私の、手、ではない、足に負えないと判断して、上の写真はYさんにお任せして(写真下・左&中央)、下で説明版(写真下・右)を読む。内容は高度でよく解らないが、この色あせた説明版が、ごく最近の平成25年7月に熊野市教育委員会によって建てられたことに注目したい。


***

 山城の研究は、各地で発掘が進み、出土遺物や縄張りのデータ集積されている。その結果をもとに、今までおぼろげだった築城時代がより確実に推定され、その結果、築城者と思われている武将にも、
疑問符が付けられるようになっている。私の地元、埼玉県杉山城の研究が良い例だ。
 赤木城も築城者は藤堂高虎とされている。地元で頂いた小冊子でも、その説を疑問視しているようだ。我々、一般の城フアンも、忙しく文献を漁らねばならないのだ。

 でも、城研究のプロではない私は気が楽だ。近くの「丸山千枚田」に立ち寄って、良い写真を撮るため日没を待つYさんにノンビリ付き合った。結果をご覧ください。金が取れる写真が撮れました。





     ■156 鎌刃城  
      訪問日 2018年11月17日 
      スタンプ設置場所
      「Cafe&Gallery源右衛門」案内パンフレットボックス


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  早朝5時に、Yさんが我が家に迎えに来てくれる。今日は久しぶりに東名高速で西を目指す。快晴で渋滞なし。とくれば流石に東名は観光道路としても、素晴らしい。右に富士、左に駿河湾を堪能して、小牧で名神高速に入り、米原で高速道路を下りる。そこが、番場。
 「忠太郎食堂」の看板が目に入る。そうか、ここが、長谷川伸の名作「瞼の母」の主人公、「番場の忠太郎」が生まれた土地なのか。「忠太郎」は中村美津子、氷川きよしが歌って、カラオケの定番となっている。長谷川伸の戯曲を斜め読みしてみるが忠太郎の番場時代には触れておらず、どこから「番場の」と付いたか不明だ。更に脇道に進むと、忠太郎は劇の冒頭で「半次郎」という若きやくざを助けているが、これが「箱根八里の半次郎」なのか?では、「大井追っかけ音次郎」とは誰のことか?パソコンの斜め読みでは解らなかった。

 本題へ戻ろう。本題はなんだっけ?そう、鎌刃城だ。いや、違う、鎌刃城のスタンプだ。「源右衛門」は簡単に見つかった。だって、Cafeが有りそうな道は一本しかないのだから。パソコンには土日のみ営業とあるが、この日は日曜にも拘らず、店は開いてないようだ。
 道端にスタンプが置いてある。店にスタンプが置いてあるのは「百名城」の千早城以来だ。パンフレット代100円を奉納し、城山への道を探す。
 幸か不幸か、我々は、それさえも見つけられず、この名前すら初めて聞く国指定史跡の名城を後にした。どうせ、両足不自由な私は、山道の上り、下りが出来ないのだから。
 源右衛門さんとはどういう人なのか?城郭協会とはどのような関係なのか?米原市は何故「続百名城」を大切にしないのか?これも、通り一遍のパソコン調べでは不明だった。
どこかのSA。6:時55分。
笠をかぶった富士山
車窓からの富士 米原ICで下りる。そこが番場。
「忠太郎食堂」の看板があった。
鎌刃城と「宿場町番場」の指導表 「城へ」の道標はあるが
道は見つからなかった。
仕方ないから宿場町番場周辺を歩く
スタンプ置場 CAFE&GALLERY「源右衛門」前景。
モデルはY夫妻。
番場宿入口駐車場の
「続百名城ツアーバス」。
ここから歩くのだ。


 

     ■167 新宮城  
      訪問日 2019年4月21日 
      スタンプ設置場所
     「新宮市立歴史民俗資料館」


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 昨夜は新宮に泊まった。ホテルにエレベーターがない。エッと驚く足が不自由な私に、フロントマンは、慌てず騒がず、階段に備え付けの電動椅子に案内してくれた。動き始めは不安だったが、慣れると、ヨーロッパの古城に住む大富豪の老人のような気分で1・2階を往復した(写真・右)。
 夜は近所の居酒屋「熊五郎」で土地の名物料理を。Yさん夫妻はキャンピングカーで全国を回っているから、各地の名物に詳しい。今日の昼も「はりはり」とか「マグロ寿司」(写真下・左)などを土地のスーパーで仕入れて車中で賞味する。三人で写真に納まって(写真下・右)、カラオケに繰り出したがこれは非公開。えっ?見たくない?ゴモットモデス。
初日の昼食・まぐろ煮寿司 帰路の昼食
柿の葉寿司とはりはり寿司と
鯖寿司の3点セット
夕食は熊五郎で
 朝、走り出すとすぐに新宮城があり、そのまま登城。但し私は駐車場止まりだが。この城は石碑が多い。まず、「丹鶴姫の碑」。姫は八幡太郎義家の孫、源為義の娘、新宮十郎行家の姉、頼朝・義経の姪にあたる。熊野水軍を源氏に引き入れるため一役買ったに違いない。
 与謝野鉄幹(写真・1)・地元の佐藤春夫はともかく、「新宮市暮らしを考える主婦の会」の碑(写真・2)まである。
 ただ、城の見どころは碑ではない。整然とした石垣(写真・3)、立派な井戸(写真・4)。
 本丸からの、熊野川に開いた水の手門の写真が素晴らしい(写真・5)。パソコンの先達の記事では健常人でもアクセスに苦戦するそうだが、この写真からでも、往時、備長炭を大量に江戸へ積み出した湊の様子がほの見える。(尚、備中炭とは紀伊田辺の商人備中屋長左衛門がウバメガシ材料に作り始めたことから名が付いた由)
写真・1 写真・2 写真・3 写真・4

写真・5

 スタンプは阿須賀神社境内の新宮歴史民俗資料館。ここでも、入場料支払い後の捺印。私の抗議を聞いた受付氏は、気の毒がって、展示品の「御正体」が神社の御神木から掘り出された経緯など説明してくれた。(下の写真2点)

那智の大滝

 那智の大滝を見物に行く。幸い地元から出発したので観光客の混雑より一歩早く着けた。滝の写真はどこにでもあるが、この石段の写真は、滅多にない。私にとってしか意味がないかもしれない。私は、この中央の手すりを両手で掴み、下り、登ってきたのだ。もっとも、途中で手すりが途切れる場所もある。Yさん夫妻が付いていなければとても達成できない挑戦だった。(写真下・左)
御神籤でも、夫人の力を借りた。(写真下・中央と右)この御神籤を引く料金100円。神社は金に淡泊だ。そこが嬉しい。






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