■登頂記 B型が書いたキリマンジェロ |
●何処へ行ったか |
キリマンジェロがアフリカの最高峰であることは誰でも知っている。高さは?5900M。富士山は?3776M。富士山より2000M高い。アフリカのどこにあるか。アフリカ大陸の地図を思い描いてもらいたい。大陸の中央に横線を引く。これは赤道。中央に縦線を引く。これは補助線で名前はない。キリマンジェロは赤道の少し下。そして縦線の右側にある。
これが、B型の説明で、A型が読めばいてもたってもいられない。キリマンジェロは5895M。富士山はかくかく。従って高度差はかくかくM。「横線」は「東西に」ではなくてはならないし、「縦線」は「南北に」だ。赤道はよいが、南北の線は東経、又は、西経何度と書かねばならない。タンザニアの上の方、いや、北の方、ケニヤ国境からなんKM南と書くだろう。どっちにしてもキリマンジェロの位置は地図で確かめるしかないのだが。 |
●誰と行ったか |
私は大学時代山岳部に属していた。山岳部員は卒業すると自動的にOBで組織する「針葉樹会」の会員になる。この会の歴史は長い。大正時代から現在までわが国の登山史を飾る岳人を輩出している。しかし、多くは卒業後次第に山との縁が薄くなっていく。私もその一人だ。数年前、山行を続けていながら、私のゴルフにも付き合ってくれていた同期の友人が会の副会長になった。彼に誘われて、会に出席し、懇親山行にも参加するようになった。
2007年に「ヒマラヤ・トレッキング」が会で企画され、喜んで参加を希望した。「トレッキング゙といっても4300Mはある。富士山で高度順化をしておけ。俺が連れて行ってやる。」こう言ってくれたのは70歳の私の更に6歳上の先輩だ。10年後輩も「私は十数回富士に登っています。一緒に行ってあげます。」と心強い。登山前日にスポーツ店で下着からヤッケ、帽子から靴、ザックからストック、一切を買い整え無事、登り、降りてきた。その効果でヒマラヤでは高山病にはならなかった。
2008年には、キリマンジャロ登山の話が会で出た。喜んで参加を申し出た。
最終的には、S(S33卒。私を富士に連れて行ってくれた人)、N(S36卒)、E(S37卒。私のこと。)、H(S39卒)、K(S40卒)、O(S40卒)の6人が行くことになり、Hの綿密な「準備予定表」に従い、ミーテイング、合宿登山、健康診断、低酸素トレーニングなど、忙しくも充実した半年を送った。
各人の血液型は、追々触れることになるだろう。 |
●どう行ったか |
2008年10月6日 |
羽田から関空。関空からドバイへ。そこからケニヤの首都ナイロビ。全て「エミレーツ航空」を利用。「エミレーツ」とはどうゆう意味か?今をときめく「ドバイ」は何処の国か?
貨幣の単位は?B型は全てに興味を持つが、調べない。調べてもすぐ忘れる。
「エミレーツ航空」を選んだのは、今回6名のパーテイーの幹事役を買って出たH。A型である。彼は、本来なら、旅行会社に丸投げするこのツアーをその血液型の性格の全てを注いでほぼ独力で作り上げた。彼がこの半年間、現地と毎日、或いは日に数度のメイルをやりとりしてたてたスケジュールは、単に「経済性」だけでなく、各人の我侭を吸収した、痒いところに手が届く完璧なものだった。そう、私の最初の我侭は、「飛行機は、窓際の席を確保して欲しい」ということだった。「エミレーツ航空」はこの要求にこたえてくれた。会費ゼロの会員になれば、(後で立派なタグも会員証として送ってくれる。)往路も復路も、この度々の乗換えにも拘らず、予約した便の全てで窓際の席(しかも、翼の上ではなく)を指定してくれていた。国内、国外を問わず、機窓からの地上観賞を旅の重要な楽しみにしている私には、チェックインの度に席の優劣に神経を使わないのは大満足だった。但し、往路は殆どが夜。
僅かにドバイの盛況ぶりと、ナイロビまでの広大な砂漠を見ただけだったが。それでも、見なかったら気がもめて今回の旅の達成感は半減しただろう。
延々と砂漠の上を飛ぶ。緑がない。水がない。所々地上に黒い部分。それが、ブッシュでなく雲の陰と判るのに暫く時間が必要だった。
ナイロビ着。チェックインの時預けた荷物が・・。出てこない場合を想定して、登山靴やら防寒具、小型の酸素発生器、現地で購入、又は借用出来ない器具、薬品などは手荷物として、機内に持ち込むという周到な準備をしたのだが杞憂。預けた荷物はスムースに出てくるし、入管・税関も、出迎えの現地旅行会社の車に会うのも問題なく、むしろ、拍子抜け。雑踏のナイロビ市内を抜けて旅行会社着。キリマンジャロ登山には、入山の申し込み、ガイド・ポーターの手配が必要だ。のみならず、我々は下山後数箇所のサファリで清遊する予定だ。手作りのスケジュールだけに余計現地の旅行会社の情報が不可欠だ。日本人の女性担当者は手作りのスケジュールの立案者であるHの頻繁なメールの問い合わせに、終始的確な対応をしてくれた。若く美しい担当者嬢我々一同初めて拝顔の栄に浴し、お礼を申し上げる。
ホテルに送ってもらいチェックインもそこそこに、日本大使館の出迎えの車に乗る。
ケニアの大使は如水会の後輩の由。急遽、如水会ナイロビ支部会員を大使館に招集して呉れたのだ。我々6名に先方も大使夫妻、公使、JAICA駐在員、国連職員等の6名が出席されて、大使公邸で夕食をご馳走になる。現地のコックだがようやく口に合う食事が作れるようになったと。立派な公邸。庭も広々。夜目にも巨樹生い茂って、大日本国の大使館として恥ずかしくないたたずまいだ。緊張しているのは零細企業所属の私だけで、国の金、大企業の金を使い慣れている我がパートナー達は伸び伸びと談笑して、夜も更けぬうちにホテルへ帰る。尚、この経緯はKの筆で「如水会報・橋畔随想」の冒頭を飾っている。
部屋割りもHは心を砕き、ツインの相手は毎夜異なる。今夜はS。話もそこそこにベッドへ倒れこむ。ところが、暫しのまどろみが頭の上の大騒音に破られる。なんだ、これは!
ガバッと起きると楽団の大演奏!廊下に飛び出すと隣のレストランで大パーテイ。外国のホテルには大概いる各階のボーイがなにをしている?と、とんでくる。冗談じゃない!この騒音をなんとかしろ!いや、自分では・・。とボーイは階下のマネージャーの机に私を連れて行く。ここはホテルだぞ。金を払って安眠を買ったのだ。俺の部屋に来て見ろ。これで眠れるか!私の剣幕にマネージャー氏はほうほうの態で引き下がり、暫くしてパーテイーは終わって静かになった。
ところが、翌朝、この騒ぎを他の5人は何も知らぬと言う。どんな神経をしているのだろう?もう、私のイビキがうるさいなどと言わせないぞと、心中深く期するものがあったが、この旅行中、イビキに関する話題は出ませんでした。メデタシ、メデタシ。
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10月7日 |
「5時起床。6時食事。7時迎えのバスに乗り込み出発。22℃。1600M」
私はこのパーテイの記録係りなのだ。 月の第一回準備大会の時、準備委員長のHが、リーダーはN、装備はS、食料がO、Kは会計、と淀みなく決めていったのだが、さて、Eは・・、となるとはたと行き詰った。無役と言うわけにはいかない。一瞬の空白時間の後、Hは高らかに宣言した。Eは記録係!Eも含め全員がホッとした。記録係が無能のため命を失った登山の例は聞いた事がないものネ。で、「」内はEのささやかな記録です。
昼、ケニヤとタンザニアの国境を越える。検閲を待つトラックの長蛇の列。エンジンルームから車体の下まで厳重なチェック。何時間かかるだろう?10年前にここを通った時の記憶が鮮明で覚悟したが、空港同様、取り越し苦労。各人が書類にチョコチョコと記入すれば、ハイ、お通り下さいとケニア出国、タンザニア入国。
メルー山に似た山や、本当のメルー山を右に、左に、正面に見ながら、映画「ハタリ!」の舞台になったアリューシャを過ぎ、一路キリマンジャロ山麓の町、モシ。市場には今までの路上ではあまり見なかった女性が多数。バナナも木にも店にも多数。「日本では今バナナは品薄だ」と呟いてみるが諸兄の反応はゼロ。日本の女性の間では今バナナダイエットが大流行で品薄なのだ。この事実を知らない諸兄は奥さんとの会話が不足しているのだと、帰国後鼻高々に女房に自慢したら、「皆様の奥様はダイエットの必要がないのヨ!それに引き換え私は・・、エーンエーン」と泣かれてしまいました。
「15:35 モシのホテル着。32℃。810M。」
「17時ホテルからのブリーフィング。」このホテルの宿泊客は殆ど明日からキリマンジャロを目指す。その『老若男女』の客が中庭に集められる。『老』は、我々6名のみ。残りの約40人は世界各国からの屈強な『若男女』。ホテルからの一般的注意があって、引き続き各パーテイに分かれ、チーフガイドに紹介される。我々のチーフガイドはウイルソン氏。我々に相応しい57歳、登山暦1000回というベテラン。Hの膨大な頭の中の資料にもその名が入っている由で大安心。「19:30夕食」だが、直ちに「睡眠」とはいかない。睡眠前に「体内酸素値測定」をする。これもHが測定器を持って各人の部屋へ。本当にお世話になります。各人の「宿泊地別体内酸素値(P02)表」も記録係りの担当だが、測定器が不調になって途中でウヤムヤになりました。 |
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10月9日 |
「6:30朝食。 8時各人ホテルに置いていく荷物、山へ持っていく荷物に分けチェックアウト。8:50迎えのバスで出発。」
昨夜はSと同室。朝はマイクで町中に響くコーランの読経で目覚める。私はシンガポールやどこかで時々この早朝のコーランを聞かされたが世界を歩いたSが初めてとおっしゃるのは意外だった。
ホテル二階のテラスからキリマンジャロがよく見える。鶏鳴。絶え間ない小鳥の囀り。
これは、Nが撮影したヴィデオの冒頭を飾る名場面だ。ヴィデオではSとNがキリマンジャロのヴァリエーション・ルートを論じる落ち着いた会話を聞くことも出来る。
「9:50マラングゲート。1500M。20℃。 11時 出発。」
ゲートと言っても門戸が閉ざされている訳ではないが。申し込んであるガイド4名。ポーター12名。コック、ウエイター数名の一大デリゲーション(?)がここに手配されている。但し、ガイドの数以外は自動的に決まるらしい。我々6人のパーテイに4人のガイドなら充分と考え一人に一人のガイドを申込まなかったのが今回の登頂計画の唯一の、本当に唯一の下山後の反省点だった。
ポーター達の荷物分けなどを待つ時間、ゲート事務所前の売店を覗く。日本の博物館の売店と同じく少し高いかも知れないがここでしか買えないキリマンジャログッズがある。買わなかったことの「後悔」も良い思いでとしてしまうのがB型の良い点(?)
水とランチしか入っていないサブザックとダブルストックで軽々と、ポレポレで(最早日本語になったような「ゆっくり」の意)歩き出す。
「何故山に登るのか?」「そこにあるからだ」この有名な問答も最近はこれで終わらない。
「何故、この山はここに『ある』のだ?」の問いに答えねばならない。キリマンジャロ山は複成火山(同じ火口からの複数の噴火で形成された火山)。750万年前に噴火。地球の年齢45億年に比較するとつい最近だが、人類の歴史100万年に比すると大昔だ。アフリカ人もこの大噴火の被害を受けなかったのは、ご同慶の至りだ。しかし、火山には温泉が付き物。この山麓のどこに温泉があるのか?いや、アフリカに限らず、日本人以外は「温泉」を掘削してまで楽しもうという思想はないのだろうか?日本は温泉に外人を誘致するのでなく、「温泉産業」を輸出するべきだ。少なくとも、案内書とTV番組は、潤う筈だ。
「15時 マンダラハット着。2730M。20℃。」
ロッジは一棟6人。約10棟が各宿泊地にある。ポーター達はテントで。食堂、炊事小屋、男女別トイレ、が別棟に。
従って登山客は全て予約制。ガイド、ポーター等の同行は予約と同時に義務付けられている。富士の山小屋の超過密に比べ優雅な山行きが楽しめるが、富士山その他日本の山にこのような定員制を強いたら、大衆国家の日本人が黙っていられるだろうか?大混雑の日本の山も貧富の差がない「日本の良さ」とB型は考えるのだが。この「キリマンジャロ国立公園」の小史。
「1961年タンザニア独立。1973年2700M以上を国立公園に指定。ノールウエーの援助でマンダラ・ハット、ホロンボ・ハット建設。1977年オープン。」
「16時―17時 マウンド・クレーター往復 17:30 夕食」
夕食時に3名のアシスタント・ガイドがウイルソン・チーフから紹介される。TOSIA26歳。DANIEL21歳。MARANNDU39歳。各々に私のノートにサインさせる。この儀式は友好の為だけではない。確かに「契約」どおりの人数が雇われているかの我々の側からの確認だとNが云う。治にいて乱を忘れず。外国慣れしているNリーダーは山以外でも、はなはだ頼りになる。
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10月10日 マンダラ・ハットからホロンボ・ハット |
「6時 起床。外気10℃。7:30 出。12時 ランチスペース。3280M。20℃。14:20 ホロンボ・ハット着。3780M。19℃」
朝はバケツ一杯のお湯と洗面器が配られ、各自顔を洗う。宿泊地だから水が沢となって流れている。ロッジから半裸になって身体を拭いているうら若き外人女性が目に入り、私はあわてて目をそらす。いや、本当です。我々は勿論下山後のホテルまで入浴などしない。「歯を磨いた人、磨かなかった人。」「日焼け止めクリームを使った人、使わなかった人。」これもHの指示で記録してある。興味のある方は、お問い合わせ下さい。
昼食は出発時、ランチボックスが支給される。内容は写真で記録。ランチは食べる場所が決まっている。テーブルとベンチと少し離れてトイレが備え付けてあるランチ・スペースで昼食となるのだ。今日のランチ・スペースには小動物の30センチほどの頭骸骨が転がっていた。ウイルソンに聞くとDIGDIGだという。ガイドはなんでも知っていなければならない。このパーテイーには山の植物、鳥の権威Sがいる。Sの高度な質問にガイドはかなり的確に答えていたようだ。因みにSはHと二人、A型。B型の記録係は道路脇の珍しくない植物名の記録で手一杯。曰く、エレカ、マウワーイ、マジャン、シュワロン。ちょっと珍しいのがセネシオン、アンクラス。鳥の名はSから。サンバード2種。ところが、Sが初めて見たという鷲の名を記録した私のノートには「ナントカイーグル」。
夕食時、各人に記録用の「今日の一言」を依頼した。「探していた女性のポーターがいた!」
「将来はここはバスが通るだろう。」など。
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10月11日 ホロンボ・ハット泊 ゼブラ・ロック往復 |
「5時起床 2℃。8:40出発。10℃。10:10 ゼブラ・ロック 3835M 12℃。12時 ホロンボ・ハット着」
背中には水だけ。緩い登り。高度順化の為の散策。昨日来のO(アルファベットのO。小野さんのイニシャル)のトップのポレポレ振りがガイドを含む全員から絶賛を浴びる。
こんな広々としたゆったり道でもトップ以下整然と一列になって歩くチームワークに同じ釜の飯を食べた山岳部OBの山行きの良さをしみじみと感じる時だ。
「ゼブラ・ロック」は高さ推定5M、横推定20M、奥行き不明の黒・白の縞が入った巨岩。何故このような岩ができたのか?興味はあるが、勿論答えられない。
12時帰着で昼寝を少々。隣のロッジに5人の日本人。全員31歳。「これから、ゼブラ・ロックへ」と、14時に出て行った。
キリマンジャロがいよいよ近い。1889年、ドイツ人マイヤーが初登攀。それこそ、彼が頂上を目指した理由はなんなのか?日本の山が登られるのは宗教的理由が多い。伝説時代の富士はともかく、槍ヶ岳を典型とし、剣にしても近代に官・民が相争って登ってみれば古の錫杖が埋められていたという。ヒマラヤでもかなりの高度まで神・仏に捧げる旗が翩翻と翻る。それに対し、西欧の登山は?と、と、問うて見てもさて、自分は?と考えてみれば、オヤ、理由がないや。但し、マイヤーはドイツ人。キリマンジャロが変則的な国境線で旧ドイツ領のタンザニア領になっているのがそのせいだとしたら、俄然彼の登頂の目的はキナ臭くなってくるのだが。
キリマンジャロ登攀の歴史を紐解く時、興味を惹くのはロンドンから一歩も出てない「権威」が「赤道直下に雪山などある筈がない。」と現地の報告を無視し続けたことだ。
また、日本人の初登攀は早稲田隊だと。私の中学以来の友人(故人)はこの「W大探検部」の一員として参加していたのだ。しかし、この壮挙も当時はキリマンジャロ登攀は日本では富士に登ったようなものと、陰口がきかれていたのを覚えている。
この二つのエピソードは、いざ公式に提出という時には未練なく削除できるので気楽だ。
いつのまにか、夕食の献立も記録の対象になった。今夜は「パン、エリックスープ、鳥フライ、ドライカレー、レモン、キュウリ」昨夜は、「スパゲッテイー、ミート・パイ、野菜の煮込み、パッションフルーツ、オレンジ」各料理を、Sが厳かに判定していく。ランクはEXERELLENT、good、fair、poor、そして、not acceptable。
エクセレントを貰ったのは「スパゲッテイー」。「今日の一言」でOが曰く、「食事が細いNが手を出したほど今日のスパはおいしかった。Hは三杯たべた!」
Oは食料担当。Nを気遣って次の日は日本からの「にゅうめん」を炊事場に持参し、コックと一緒に作って食膳に供した。Nだけでなく、我々も食が進んだ。
ついでに、朝食。夕食同様パーテイー毎にテーブルが違い、微妙にメニューも違うようだが、大体どのテーブルにも、ミルク、砂糖、紅茶、コーヒー、蜂蜜、ジャム、バター、などが使い放題になっていて、そこに、熱湯、パン、野菜、などが我々専属の給仕の手で運ばれてくる。我が家の食事より余程良い・・と書くと家から追い出されるので書かないけれど。
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10月12日 ホロンボ・ハットからギボ・ハットへ |
「6時 起床 −2℃ 7:30 出。9:10 休憩。3815M。Oがカメラを忘れる。12:30 ランチ。 14時 ギボ・ハット着。4750M。8℃。5時 夕食。9℃ 献立はジャガイモのスープ。Oの評価 GOOD」
小屋の高度は旅行会社の案内書を写す。気温と休憩時の高度は持参の腕時計型測定器により、同様な器具を持つS、Nとすり合わせた。但し、B型としては、ここで50M違おうが、5℃違おうが、H以外のいや、A型の読者以外はどうでもよいだろうと考えている。
最初にキリマンジャロが姿を現したときから左の肩の蝶々型の雪渓が目を惹く。左の肩は・・、アレッ、こっちは南面だよ。あっ、そうか、ここは、南半球。南北が逆なのだ。だから、夜中星空を見ても馴染みの星座がない。北極星がない南半球はどのように、「南緯」を決めたのだろう?南半球でビジネスをした経験を持つHから、面白い話をいろいろ聞く。最後にH曰く、「南半球では洗濯機は右回りか、左回りか?」と。
ギボ・ハット間近のささやかな急登に息が切れる。いよいよ、明日は登頂かと緊張する。
「今日の一言」集。S「富士ならここは五合目。ギルマンが九合目。そこからが大変」
N「キナバル以来の4800Mで、なんとなく高度の影響を感じた。」E「南面の雪渓が面白かった」H「前日までは写真を撮っても簡単に列に戻れたが今日は苦しかった。Sのゆるぎない足取りに改めてSの偉大さを感じた」K「長かったけど、なんとなく着いちゃった」O「カメラを落とした。明日拾って帰ろう」
Sの「偉大さ」はHのみならず全員が感じ入っている。言葉を交わす外人達にKが「HE IS THE OLDEST BUT THE STRONGEST」と紹介し、76歳とSの歳を伝えると皆「INCREDIBLE」と絶句する。ガイドも一目も二目もおき、度々、荷物を担ごうと申し出るのだが、Sは相手にしない。私なんか「じゃー、あなたの荷物を持ちましょう」と言われてこれ幸いと暫く空身の歩みを楽しんだのだが。
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10月13日 ギボ・ハットからギルマンズポイント。ホロンボ・ハットへ。 |
「前夜22時 起床。23時 出発 −10℃。12:00−12:30 酸素発生器使用。2:40 ハンス・メイヤーズ・ケーブ 5150M。−10℃。 6:00−6:30 ギルマンズポイント 5685M 0℃。 8:00−10:00 ギボ・ハット。
5℃。14時 ホロンボ・ハット着。」
いよいよ登頂日。この一日の為に我々は一年近い準備を重ねてきたのだ。岩も雪もないキリマンジャロは夏の富士と同じく、登っても自慢できる山ではないだろう。しかし、キリマンジャロ山には夏の富士、日本の山では経験できない「高さ」と「寒さ」がある。6000Mの高さはこれもHが周到に手配した「三浦雄一郎」の低酸素トレーニングルームに度々通うことで体験出来た。しかし、ガイドブックにあるマイナス20℃の頂上の温度は未経験で想像がつかず、それだけにかなりの恐怖感があった。
起床と同時に持参の衣類をあれこれ考えず全て着込む。下山後この日の服装を全員に書き出してもらった。(もっとも、「皆さん、登山日の衣装をご報告下さい」の私のセリフに「仮装行列や舞台ではないのだ。服装と言え」とA型のHはすかさず突っ込んできたが)上半身7枚、下半身5枚の重ね着、靴下2枚、手袋2枚。ここいらが標準だろう。それに皆が付け加えたのがホカロンだった。私は体重50Kに満たない細身だから皆より1−2枚多い万全の準備だ。勿論、ホカロンも持参だ。ところが、ホカロンのビニル袋が破けない。焦る。「ホカロンが出ないヨー。」70歳の後輩Eが71歳の先輩Nに泣きつく。Nは落ち着き払って受け取るとサット開いて黙って返してくれる。助かったー!
用意の両面テープで下着のあちこちに貼り付け、手袋の中にも小型を入れて準備完了。
因みにNはO型。O型はB型の面倒を見るように運命付けられている。Nには社会人になってからも随分世話になった。現に今回もNはEの面倒を見るために来たと公言して憚らない。
外は見事な満月。今日13日は満月と知って、リーダーNは登頂日に選んだのだ。しかし、満月の顔を見たのはこの出発の時だけだった。後はひたすら下を見て一歩一歩、歩くだけ。月を振り仰ぐエネルギーも無くなるのだ。
例によって、急坂ではSの後につく。「六根清浄」富士登山の呪文は吸って吸って、吐いて吐いての呼吸術と知った。三浦でも6000Mに設定した部屋のトレッドマシンでこの練習をした。Sはこの呼吸術の具現者だ。ところが、Sの足元が珍しく覚束ない。右に左にふらついて、一時間も歩いた後、倒れこむ。我々は小型の酸素発生器を持参し、二日前にはロッジで実際に使ってみた。その器具でSに酸素を吸ってもらう。5−6分経っただろうか、Sは元気になる。そこからがSの面目躍如のところだ。「俺はここから降りる。薄い酸素のギボで休むともっと悪くなるといけないから、ホロンボまで降りてお前達を待っている。」しっかりした口調で教科書のような正論を述べ、アシスタントガイドを一人従えてしっかりした足取りで降りていった。
また、一時間後今度はOの足が出なくなった。Oの場合は原因がはっきりしている。北海道に住む彼の場合、代々木の「三浦」に思うように通えなかったのだ。Oはここ数年、この6人の中では一番ハードな山をこなしている。この前年に「100名山」を完登した山の現役だが、高さの影響はまた、別の次元なのだろう。昨年Oは私と一緒にヒマラヤへ行った。その時は4300Mまでだが、裏庭に登るような足取りで登ったし今朝まで一番元気だったのだが。
ここで、H,K,Eのポレポレ組と、Oと彼に付き添うNの「もっとポレポレ組」に別れ登頂再開。ハンス・メイヤーズ・ケーブで一休み。数時間後から出発したパーテイーが次々に追い抜いていく。五人の日本の若者グループもだ。やっこらしょと立ち上がって一歩ごとに二呼吸しながら、登る。いつの間にか、我々の荷物はウイルソンとアシスタントガイドのトシヤの背中だ。水とカメラとアメ程度しか入ってない荷物もこの場でチップを追加して担いで貰う。
ようやく、稜線。そこがギルマンズポイント。6時。今回の山行きは天気に恵まれた。日の出が見える。風もない。気温は案ずることもなく―10℃。
ウイルソンがゆっくり話し始める。「あなた方はかなり疲れている。それに高齢だ。時間も予定より遅れている。あなた方3人に対し、残ったガイドは二人だ。これから最高点のウルフピークを往復する間に何か起きたら対応できなくなる。ここで引き返そう。」
あー、いいですね、いいですね。このお鉢の反対側にあるウルフピークはいかにも遠い。私はここで充分。なんの未練もない。幸い、Hも元気一杯の状態ではなかった。多少の余力があるKも素直に頷いて、後は記念写真。直径900M深さ50Mの大きな火口内部の南面に残る氷河グレイシアが美しい。時折ウルフまで完登したグループが帰ってくる。昨夜同室のニュージーランドの単独行の女性カメラ・・、ウーマンもすたすたと下りてきた。
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勇躍、ゴロゴロのガレバを下り始めると、Oを下山させてNがガイドを伴ってゆっくりと登ってきた。「なにっ?おりるの?」流石、リーダー、頂上を極めない登山にはなはだ意外そうだったが学生時代と異なり叱咤激励して登らせる訳にはいかない。また、我々の下山も見届けねばならない立場だ。ウルフピークへの単独登頂を諦めて仕方なくギルマンズピークを踏んだ後、駆け下りて、我々に追いつく。
富士の砂走り状の下りを一直線にギボハット。途中でOと合流しハットで衣類を着替えポーターに預け、空身に等しい荷物でブラブラとホロンボハットへ。後のたった一つの仕事はOのカメラ探しだが、これも、見つかって無事ハット着。元気なSに迎えられる。
今夜がガイドやポーターと過す最後の夜。寒いからロッジの中でビールと柿の種でお別れパーテイーを開く。キリマンジャロ登山客は年間約4千人。ヨーロッパ、丹生―ジーーランドが多い。日本人も団体で来る。ウイルソンがガイドした最高齢者は80を超えている。などの話。圧巻は歌の交換。我々は当然山岳部の部歌「讃山譜」。先方も日頃宴席で歌っているのだろう、掛け合いの入った彼らの歌を歌った。この歌はNがヴィデオに取っていてくれた。ダビングして貰い、この歌の場面を自分の私的な報告会の目玉としている。音は写真ではわからない。ビデオの独壇場だ。 |
10月14日 ホロンボハットからマラングゲート経由モシへ。 |
「6:30 ホロンボハット発。10:20−11:10 マラングハット。朝食。 13:30−14:30 マラングゲート。15:30 モシ」
バラバラになってノンビリと帰途。キリマンジャロが見えなくなっても怪異な山容のマウエンジーが見える。不人気な山だが。
これから登るグループとすれ違う。「MAKE IT?(完登したか?の意の由)」、
「YES」「おめでとう」と会話を交わす。夫妻もいる。すれ違って、綺麗なお嬢さんだった。と呟くとHが何処にお嬢さんがいたかと聞く。今すれ違っただろうと答えるとあれは夫人でお嬢さんではないとHは何処までも真剣だ。この典型的なA型のHとの会話はいつもこんな調子だ。そこをうまく調整してくれるのがB型らしからぬB型のKだ。恐らく、BOなのだろう。(OBではないよ。念のため)BOだからこそあの煩雑なホテルやポーターのチップの支払いをこまめにこなし、ツアー終了後は芸術的ともいえる各人別会計報告書が作れるのだ。
このパーテイはBが3人。Bの庇護者Oが一人。残りの二人はA。二人とも徹底した調べ魔で典型的なAだがうち一人はAO(おそらく)。BBはおそらく私一人だろうが伸び伸びと暮らせた。時には真面目に話せば大笑いされたり、冗談のつもりが真面目に取られたりしたが。
ゲートで迎えのバスに乗り、モシのホテル。一服後、中庭でウイルソン氏から「10月13日6時にギルマンズポイント5685Mに70歳で(これは私の歳)登頂した。」との国立公園のDIRECTOTORとガイドのサイン入り証明書が各自に厳かに授与された。帰国後、コピーを親戚、知人、友人に手当たり次第配ったが、逆に私が貰ったら、始末に困るだろう。
最後の「今日の一言」から。「相変わらず食欲がなく入れ歯がガタガタになった」「天気がよくて良かったが、埃がすごかった。」「ともかく、全員無事下山できて安心」
私の「今日の一言」
数年前まで私が山に登ること、それも、ヒマラヤ、キリマンジャロなどに登ること、登れることなど、考えもしなかった。考えも出来なかった。それが、ふとした切っ掛けで懇親山行に参加しあっと言う間に昔の気分を取り戻し気がつくとこうなっていた。
学生時代も社会人になっても山には熱心でなく、針葉樹会にも不義理の限りを尽くしていた自分が、針葉樹会の先輩、後輩に何の隔たりもなく仲間にしてもらえたことを感謝しています。
今は、名ばかりの針葉樹会員だから山にも登っていないからと針葉樹会に縁遠くなっている方々、私のようなものでも皆歓迎してくれました。是非、気軽に例会や懇親山行にご参加下さい。
(但し、この二つの山は、シェルパやポーター、ロッジ、食事つきで強い円の力で登れる山だ。日本のちょっとした山だと登れない体力だと自覚していることはここでは書きたくない。書きたいことは、この後、数日のサファリなどを楽しんで帰国したが、以後も、全員が体調を崩すことなく帰国後の激務をこなしたことである)
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●サファリの部 |
10月15日 アリューシャ経由タランギーレへ。 |
「8:30 モシ発。9:30−10:00 アリューシャの観光会社。13時 タランギーレソパロッジ着。 チェックイン後ゲームドライブ」
モシ郊外の気分の良いホテルをチェックアウトしてアリューシャへ。そこで、これからサファリを担当する観光会社Vuriva Complex Safariへ。サファリ用の小型バスに荷物を積み替える間、お茶を一服。Sが「おい、この会社はお前の同業者だぞ」と看板を指差す。本当だ、婚礼招待状、印刷、ラミネート加工など、見慣れた単語が扱い商品に並んでいる。ウーム、シロウト衆に先に見付けられるとはプロ失格だと落ち込むが相手がA型の、いや、S大先輩にはそんな口はきけない、相手がSでは諦めがつく。早速、店主に有料でいいから貴社の見本をホテルに届けてくれ、我が社の見本を無料で送るからと盛り上がって名刺を交換したが、勿論、この会社の見本はホテルに届いていなかった。Sは手早くこの看板を写真に撮っておいて呉れ、後日送付頂いた。感謝です。三菱出身のSは道中、全ての車をチェックし自社の中古車を見つけている。流石にトヨタが圧倒的だが三菱も健闘しているのだ。銘々の沢山の荷物を屋根に積み上げ、積み切れぬ分は車内に詰め込んで、それでも我々の席はどうにか確保して、小型バスはタランギーレへ。人家が途絶える。人の気配はところどころのマサイが画とビーズ細工を売る小屋のみとなって、タランギーレのゲート着。
点在する巨大なバウバウの樹皮が削られている。増えすぎた象の仕業だと、今回の運転手兼ガイドのジョン君の説明だ。Hが珍しく「象が悪い。殺してしまえ」と過激な正論を吐く。一度、ロッジにチェックインをして、また、改めてゲームドライブ。サファリとはスワヒリ語で「旅」。「ゲーム」は「獲物」の由。この地は元々は白人の狩猟場だったのだろう。1933年の12月、ヘミングウエーがこの地に遊んだのは、ルーズベルト大統領が射止めたライオンと一緒に写った誇らしげな写真に刺激されたからと読んだ。ルーズベルトがニューデイール政策を引っさげ大統領に就任したのは1933年3月。サファリをしたのはそれから間もない頃になる。余裕だな。(それにブラックマンデーは1929年。ルーズベルトの登場まで4年あったのか。)この私の疑問はもっともだった。この、ルーズベルトはテオドア・ルーズベルト。引退後の1909−10年にサファリをしている。1936年に発表された「キリマンジャロの雪」では、主人公はまだ狩をし、テント暮らしだ。いつ頃から、動物が見るだけのものになり、このような立派なロッジが立ち並ぶようになったのか?20Cのlast quarterに今の状態になった。更に、詳しいことは例の佐久間嬢に調査依頼中。
今まで出来なかった両替がこのロッジで初めて出来た。買物、チップ、全てドルが通用するのだ。しかし、私は訪問国でその時点で発行されている紙幣を全種類集めることにしている。ここでも、何がしかのドルを出し、全種類の紙幣を取り混ぜて両替してくれと依頼すると見事にその通りにしてくれた。一回の説明で理解された経験は初めてだった。
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10月16日 タランギーレからナトロン湖へ。 |
「8時出。11:40 MONNDURI DISTRICT 14時 ナトロン湖」
ナトロン湖へは時間がかかった。大地溝の延長と思われる谷底へ下りていくかと思えばまた車は喘ぎながら登り返す。大きな上り下りがないところでもガタガタ道で若いジョンでも頻繁なギアチェンジに腕がパンパンになると。「トイレ」と一人が要求する。加齢に加え、現役の前立腺ガン患者を二人も抱えているパーテイーだから当然だ。ジョンも心得ていて道を外れ、小山に登っていきそこで用を足す。この小山も火山の由。覗き込んだ火口は深く大きい。噴煙こそないが、道を隔てたあっちの山(2800M位。今、800M。)は今年の3月に噴火したのだと。そして今トイレにしたこの山はOLDONYO LENGAI(MT. OF GOD)で、噴火口はSHIMO LA MUGU(HOLE OF GOD)。マサイが生贄を捧げて祈る神の山だと。やー、初めて現地の神に会った。神様大好き人間は私だけではない。ジョンにスペルも書いてもらって大感激。
いつの間にかマサイの少女達がビーズ細工の腕輪を売りつけにくる。この時ばかりは各人トイレの使用料と思って付き合う。Nはこれも金を払って彼女達をヴィデオに収める。「こっち向いて」と日本語で指示している。本当ですよ、ヴィデオには音声も入るのです。
さて、下を見ると高さ50センチ程の棒が二本、その天辺をこれまた50センチ程の細い棒で繋いだ置物が頼りなげに立っている。えっ!これは鳥居ではないか!時間・空間を超えて鳥居の原型をここで発見するとは!神様大好き人間達は大興奮でカメラに収めるとドヤドヤと車に戻る。道が落ち着いた頃「ジョン君よ」とおもむろに話しかける。「君は神の山で小さな木の置物を見たか?」「えーと、あー、見たよ」「あれは、なんだ?」「あー、あれはあの娘達の売り物のビーズ腕輪を飾っておく台だよ。」呆気ない結末でした。
突然、立派なロッジが並ぶナトロン湖のキャンプに着く。こんな地の果てにも白人は先ずファンダメンタルを整えるのか。しかも白人のグループの客がいる。感心の一言だ。遅い昼食後、NとEを置いて、4人は近所の沢登り。ザワメキ落ちる立派な沢を腰まで水に浸かって遡上している気持ちよさそうな写真数枚を後で見せてもらった。一緒になった夫婦の外人の女性は「もう帰る」と泣き出したくらいのショッパイ滝もあったと。4人の帰着を待って今度は全員でナトロン湖へフラミンゴ見物に。夕闇迫る湖で遠目に無数のフラミンゴの群れを見て帰る。ここも吹き抜けの 食堂で「VERY GOOD」の夕食を。蛙の声がかまびすしい。鳥の声かという人もいたが、私はボーイに確かめる前から蛙の声と確信していた。蛙がいるということは、蛙を餌にしている奴もいるということで、出たらどうしようと内心の恐怖を必至に抑える。
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10月17日 アリューシャへ。 |
「8:40 出 12時 レストランで昼食。15時 ショッピング 16時 ホテル」
ナトロン湖は秘境だ。往復に時間がかかり、行く人は時間と金を浪費する。から少ないからこそ秘境なのだ。私の孫、或いはその子供達がようやく日本から新婚旅行に行くようなだろう。だから、今のうちに「ナトロン湖観光開発会社」を発足させよう。有り余る土地に飛行場を作る。いや、あっと言う間に着くと秘境ではなくなる。ここへ来るまでの長い道中。そこにも火山や大地溝など観光資源が充分にある。つけば、沢登り、フラミンゴだけではない。シマウマの乗馬教室、化石探査ツアーも準備できる。ゴルフ場なんか1800ホールだから一週間回り放題だ。観光だけではない。地下資源に何が埋まっているか調査部門も設置する。是非、投資を、と呼びかけたが誰も乗っては呉れなかった。仕方ないから、Nと昔の映画の話。西部劇ベストテン、フランス映画ベストテン、脇役ベストテン、等々、お互いカードを出し合っていると昼食。久しぶりにランチボックスでなく国道から一歩入った林の中のレストランで気分良く。そして、アリューシャの街中へ。我々の希望通り、土産店でない、地元の人が買物をする店で土産物を買う。コーヒー専門店では好みの味のコーヒー豆を好みの分量、好みの細かさにして貰う。隣の大きなスーパーマーケットでは、缶入り紅茶、コーヒー、塩を買い込む。忽ち棚は空っぽになり、一同満足してホテルへ。夕食後Sが傷薬の名目で担いでいたウオッカを開けて反省会。私はなんにも反省することはなかった。全て満足だった。
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10月18日 アリューシャから国境を越えアンボセリへ |
「7:40 出。9:40−10:40国境。ジョンと別れケニヤ側のバスに乗り換え。12時アンボセリ入り口。13時ロッジ着。14時―18時ゲームドライブ」
朝、少し雨が降る。今回はこの時期アフリカでは当たり前かもしれないが天気に恵まれた。特に登山中は間近に雷鳴を聞き、マウエンジーにうっすらと雪が積もった一夜を経験したがあとは好天でこれは何より有難いことだった。しかし下界の好天はただただ埃。車の窓は時々閉めねばならずマスクは必需品だ。今朝の雨で埃が多少おさまった。
アンボセリはヘミングウエーが「キリマンジャロの雪」の構想を得た場所だ。この本のおかげで「キリマンジャロに登った」というと誰でも感心して関心を示してくる。同年代では半分が「豹を見たか?」と聞いてくる。冒頭「頂上には豹の死骸があるという」との本編には関係のない一行を覚えているのだ。私も準備の期間に彼とこの本について調べる気だった。しかし、読み返してこの本にどうにも感情移入が出来なかった。駅で500円で買ってきた映画も同様だった。同時期に同じサファリを舞台にした「マカンバーの短い生涯」のほうが悪女が出てくるミステリー仕立てで余程ピリッとしている。
サファリではいろいろな動物を見た。中で印象に残る数々。象が車道を動かず我々も彼(だと思うが)が動くまで5分以上も静かな時を過したこと。ライオンが二頭で一頭のイボイノシシを追いかけたが、お互い打ち合わせてないので取り逃がしたこと。ライオンが5頭で盛大に獲物を食べているところ。ライオンは矢張りスターだ。ハイエナは大きく貫禄がある。しかも自分で獲物を獲るのだと。ジャッカルは私のイメージと異なり貧相で、ハイエナの余り物にありつく小動物なこと。インパラのオスは一頭がメスを独り占めして残りのオスは「バチェラー組」(ジョンの言葉)を作って所在無くブラブラしていること。(このバチェラー組には方々で出会ってその度に我が身を鑑みこちらもしょんぼりしたものだ)。
マサイ部落見学ツアーが有料であるという。私は動物より人間が良い。まして、マサイには惹かれるものがある。例え観光マサイでも彼らにはなにか犯しがたい威厳がある。自分達の生き方を変えないしっかりしたものが感じられるのだ。あの柔らかな砂地で彼等は自転車に乗る。一時も手放さないのであろう彼らのシンボルの槍を小脇に自転車で走る。家畜の牛、山羊、羊などは食べるが目の前にいくらでもいるシマウマやヌーなどの野生の動物を食べるとは夢にも思わない。今後、彼らのこの信条はどうなっていくのだろうか。見学した部落の隣には学校が建設されるという。何が教えられるのだろう。英語だろうか。インデイアンやマサイを見ていると、我が日本民族の将来が重なって来るのだ。
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10月19日 帰国 |
7:30 出。13:40空港 16:40 定刻どおり帰国の便 発。
アーア、最後の日。この長いレポートが最後の日になったのが嬉しい。但しこの文章を十分の一にする作業が待っている。アーア。
空港までの途中土産屋に寄る。値切りに値切っていたら「あまり苛めるな」と。成る程そういう見方もあるのか、と、ようやく、A型の考え方に慣れてきた。熱戦を繰り広げた交渉が終了した時売り手にボールペンをねだられてプレゼントした。彼が、ねだる訳だ。ナイロビの空港で購入したボールペンは書けない。これに懲りてドバイ空港では店員に試し書きをさせたが、3本目でようやく書けるペンが出てきた。日本はいいナー。
帰途の臨席は大きな黒人。えらく人懐っこくしきりに話しかけてくる。こちらも予ての疑問を投げかける。「何故、あんなに沢山いるシマウマを食べないのか?」彼は淀みなく答える。「習慣の違いです。日本人が猫を食べないのと同じです。」成る程なー。よく判ったよ。ところで、日本人が牛を食べ始めたのは明治以降。今では食べない時代があったなど信じられない。彼らも食べはじめる時が来るのか?それが進歩か?国際化か?又、後で考えよう。
ところで、彼は国際会議に出席のため日本へ行く途中だという。他のメンバーは先に行ったが彼は風の為遅れたのだと言う。オイオイ、冗談じゃないよ。こんな巨大な肉の塊にとりつけた病気なら私のようなか細い人間など一撃で倒してしまうだろう。帰国後は忙しいのだ。あらゆるスケジュールをこの山行の為に延ばしているのだ。それに、帰国後倒れたら、キリマンジャロに登れた体力はなんだったかと他人は疑問に思うだろう。大変だ。彼には申し訳ないけれど後は眠った振り。話をしないことにして、乗換えの空港であっちの隅で一人淋しくいる彼も無視して無事帰国しました。あーあ、これから、忙しい。
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