北陸・東海の100名城
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  北陸・東海
 
※ピンク色の箇所は続日本百名城
富山県 33 高岡城 平成23年11月30日登城 こちらから
135 増山城 平成30年(2018年)4月21日登城 こちらから
石川県 34 七尾城 平成21年11月6日登城 こちらから
35 金沢城 平成21年11月5日登城 こちらから
136 鳥越城 平成30年(2018年)4月21日登城
福井県 36 丸岡城 平成25年5月18日登城 こちらから
37 一乗谷城 平成25年5月18日登城 こちらから
岐阜県 38 岩村城 平成25年3月10日登城 こちらから
39 岐阜城 平成25年3月14日登城 こちらから
静岡県 40 山中城 平成22年6月10日登城 こちらから
41 駿府城 平成23年12月14日登城 こちらから
42 掛川城 平成23年12月14日登城 こちらから
愛知県 43 犬山城 平成23年12月15日登城 こちらから
44 名古屋城 平成22年3月10日登城 こちらから
45 岡崎城 平成23年12月15日登城 こちらから
46 長篠城 平成20年3月13日登城 こちらから
三重県 47 伊賀上野城 平成24年3月14日登城 こちらから
48 松坂城 平成24年3月14日登城 こちらから
 ■33 高岡城 
  富山県高岡市古城
  (訪問日 平成23年11月30日)




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氷見へ行った!
 春日山城の帰途、念願の氷見に寄る。氷見の寒ブリを是非食べたかったのだ。直江津駅で宿の予約をする。ところが、ここは新潟県だから富山県の情報は駅では集まらない。次には、ようやく繋がった民宿は「今日は、不漁でブリがない」と誠実な答え。とやかくしてとにかく予約して、高岡で乗り換え、氷見駅からタクシー代をケチって、真っ暗なバス停に降り、宿を探した。
 ようやく、ありついた食卓の写真が左写真。翌朝、宿から見る海が右写真。
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越中の国府・国分寺・一ノ宮へ行った!
 氷見から高岡へ戻る途中、伏木駅に降りて歩きに歩く。この地は古代越中の国府が置かれた重要な土地である。国府の跡と推定される「勝興寺」は長い年月をかけての修復中で見学出来なかったが、国分寺跡(左写真)、越中国の一ノ宮である気多神社(右写真)など、夫々一か所で充分訪問価値のある史跡が一杯だ。
大伴家持は越中守として746-年751年の5年間滞在し、223首の歌を詠んだ由。家持の一生はいろいろの陰謀に加わって追放されたり、許されたり、忙しい経歴となっているが割愛。彼の銅像も見なかった。その代り、旧秋元家住宅を開放した「北前船資料館」はバッチリ見学した(左写真)。
 こんな人物の写真より、館内の、港を望むことが出来る「望楼」の部屋の写真が欲しいところだが、ナイ。
そして、高岡城へ行った!
 高岡城は1609年初代加賀藩主前田利長が大御所家康と将軍秀忠の許可を得て築城した。利長は1914年死去。そして、1914年「一国一城令」が制定される。
 この「令」に従い、この城は廃城となる。が、前田藩はこの城に加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵等の軍事機能を密かに残す。「密かに」というが、幕府の隠密から見れば直ちに見抜かれているに違いない。普通なら幕府はこの最大の外様大名を取り潰す実によい口実になる筈だがこれに目を瞑り、加賀百万石は幕末まで無事生き永らえる。この駆け引きを詳しく知れば面白いだろうが、数十巻の長さになるに違いない。
 晩秋の錦に飾られた城は美しかった(左写真2点)。スタンプ設置場所(右上写真)の高岡市立博物館、井戸(右下写真)も、堂々としているが、内堀の外にあるのが頂けない気がするが。写真にはないが本丸の土塁はかなり高く、高岡の市街を見渡すことが出来る。「幕府の目から隠すため、高岡城は低地に作られた」とどこかで読んだことがあるが、「隠す」など、そりゃ無理な話だ。
 市電に乗って、高岡駅へ。そこから東京まであっという間であった。


 ■134 増山城 
      富山県礪波市増山  続百名城訪城第一城
      (訪問日 平成30年4月21日)

       スタンプ設置場所「砺波市埋蔵文化センター」


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 早朝5時、迎えに来てくれたYさんの車で出発。関越、上信越、北陸自動車道路を砺波でおり、流石、Yさん、迷わず「増山城」に着く。先ず、「増山陣屋(写真・1)」に入る。案内図は壁に沢山貼ってあるが、無人。スタンプもない。スタンプの代わりに、スタンプのシールが沢山置いてある。喜んで貼ったけれどこの方がコストがかかると余計な心配をする。
 後で気づいたことだが、スタンプ設置場所は「砺波市埋蔵文化センター」だと、「公式ガイドブック」に明記されている。かなり離れた場所だ。ここのシールは初心者の我々に対するサービスなのだ。今後、ここ同様、足が不自由で、且つ、高齢な私には登城不可能な山城の百名城が目白押しで、「続百名城訪城記」は「続百名城スタンプ集めの旅」のタイトルとなりかねない。スタンプ設置場所の記録に気を付けよう。
 少し離れた城の入り口まで車で送ってもらい、登り始める。が、すぐに悟る。ここは山城だ。それも、「国指定史跡」の立派な山城だ。私の壊れた足ではとても本丸などへ辿り着く筈がない。写真・2の場所で私は待ち、Yさんに登ってもらう。ざっと一回り、Yさんの駆け足でもってしても30分かかったのだ。すっかり意気消沈して車に戻り、次に向かう。

写真・1

写真・2
 
 これが、「続百名城訪城記」の最初、幕開けの城だ。
「続百名城」は2018年4月6日(シロの日)に選定された。そのリストは直ちにエクセルに落としたが、訪城開始は各城のスタンプが完備する2019年4月6日(シロの日)以降と決めていた。
冒頭の「続百名城」のリストを分類した結果を記入してみると、
1 行ったことがある城 31城。
2 行った記録はあるが記憶が薄い城 18城
3 訪城してないが名前は知っている城14城。
4 名を知っているような知らないような・・の城 4城
 5 全く名前も知らない城  33城
 と、なり、この私をもってしても名も知らぬ城が知っている城とほぼ同数ある。


別所のたけのこ

 そもそも今回のツアーの目的は城ではない。Yさんの故郷金沢の「たけのこ」を賞味することなのだ。昨年来の計画で、Yさんの故郷の友人からの「たけのこ料理が始まった」の報せを待ちかねての旅なのだ。14時近く、予約してある金沢市別所町「竹の子めし 高野」(写真A)に入る。竹の子の刺身(写真B)、天麩羅(写真C)、筍ごはん(写真D)などを堪能した。

金釼宮
 堂々たる神社。境内にある「義経腰かけ石」は、将来、義経の平泉への道を研究するための資料となる。さらに、今、友人に付き合い紐解き始めた「奥の細道」旅行中の句とある「芭蕉句碑」(写真E)も、柞原集やら小松市の句碑やら、調べだせばキリがなくなりそうだ。
で、次の鳥越城へ向かう。

写真A 写真B 写真C 写真D 写真E





 ■34 七尾城
  (訪問日 平成21年11月6日)
  


 詩吟とカラオケ
 「ご趣味は?」聞かれ、「カラオケ」と答えるより「詩吟」と答えた方が何となく高尚に感じられると思っていた。理由の一つは『歌詞』の差だと思っていた。カラオケの歌詞の大半は、男と女である。そして、そのまた大半は、今時、滅多にお目にかからない「女を捨てる男」、「男に縋り付く女」を超真面目な顔をしてマイクに訴えている。
 「詩吟」は違うだろう。なにしろ、古今東西の選び抜かれた「名詩」を手当たり次第に吟じるのだから、それは「高尚」に違いないと、60年前の学友が師範をやっている詩吟の教室に入門した。
 それから数年、詩吟でようやく「段」を頂く腕前、いや、喉前になったが、詩吟で吟じる「詩」の中で、いまだ、男女の関係を歌った「詩」を知らない。水を渡り水を渡って会いに行く人は男。別離の盃を交わす人も男同士なのだ。恋・未練どころか「女」が出てこないのだ。カラオケとは大違い、正反対で、これはこれで異常で、少し違和感と物足りなさを感じる。カラオケの多彩な歌詞と節回しは捨てがたいものがあり、その魅力を見直している昨今である。

 日本人は源氏物語の時代は言うまでもなく、古事記の時代からおおらかに男女の情愛を歌い上げているのに、漢・唐・宋・元・明・清、そして現代中国はラブソングを持たなかったのかと。日中の文化の差をフト感じるのだが、中国に詳しい友人にまだ確かめていない。。
今日は時間に余裕があるのでバスで
ノンビリと城を目指す。
 途中、能登国分寺跡の停留場。
行きたかったが次回に期す。 
スタンプ設置場所でもある
「七尾城史資料館」入口。
風情がある。
資料館に建つ
「高橋掬太郎「古城」詩碑」。
「七尾城」は名城であり、
「古城」は名曲である。
しかし両者を結び付ける謂れはない。
 「崩れしままの石垣」と「わくら葉」は
あるが、「あおげば侘し天守閣は勿論、
矢弾の跡がここかしこに残る大手門も
青く苔むす「いらか」もない。
建立者は我が同行の士と喜ばしいが、
ここは、矢張り「九月十三夜陣中の作」
の碑であるべきであろう。
旧城主畠山氏廟。一時的に上杉に滅ぼされても名門は強い。
この廟は明治になって建てられているのだ。
訪問時は平成21年。同25年に直木賞を受賞した安倍龍太郎「等伯」で
私も畠山氏に関心を寄せるようになった。
七尾城
 
「『城』春にして 草木深し」

 8世紀の盛唐の時代の詩人、杜甫が作った「春望」の冒頭の一節、「国破れて 山河あり城春にして 草木深し」は作者や題名を知らなくても日本では、人口に膾炙するフレーズだ。杜甫が書く「城」はこの場合、「長安」で、日本ではみられない、都市を囲む城郭であろう。
しかし、日本人はこの「城」のイメージを勝手に山城に求めている。
 この、七尾城も、まさにこのイメージにピッタリの廃城であろう。
七尾城
七尾城 七尾城は、当社の専務と、
金沢の金箔業者へ業務打ち合わせ
の為出張したついでの訪城。
この写真は彼が撮った。
私が撮った彼の写真は、オクラ。 

「九月十三夜陣中の作」 上杉謙信
 この七言絶句は上杉謙信が七尾城を陥れ、越後・越中・能州を支配下に置いた感懐を、詠んでいる。時は秋。冴えわたる月光の中、雁が渡っていく。故郷のことは顧みる気はない。今は、この遠征のことをのみ想おう。
 いかにも、謙信らしい清廉な詩だ。しかし、本当に謙信の作なのか?戦国時代の武将にとって「漢詩」はそんなに身近なものだったのだろうか?そんな筈はないと思っていたが、
「万葉集は759年ころ成立した。万葉集の成立より早い751年には、漢詩集『懐風藻』ができている。「やまとごころ」を詠った万葉集よりも、中国語の詩集で ある『懐風藻』のほうが先にできたのである。」という文を読み認識を改めた。
 「馬上少年過ぐ」は伊達正宗の詩である。司馬師は正宗の生涯を扱った同名の短編小説の中で、この詩を、正宗の教養・詩心の証しとして、絶賛している。
   
「九月十三夜陣中の作」も後世の贋作か?ならば真作者は誰か?などの詮索は無用として、素直に謙信の才能に惚れ込み、心を込めて吟じよう。私の詩吟の先輩たちはグループで七尾城を訪ね、静寂の中、思い切りこの詩を吟じてきている。



  ■35 金沢城
   石川県金沢市丸の内
   (訪問日 平成21年11月5日)
   
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 前田藩の凄さ!
 前回、金沢城を訪れたのは昭和50年(1975年)頃で、約40年前だ。その時は大手門を入るとそこは金沢大学で、あー、鹿児島城と同じだと納得して帰った。今回、広々と、且つ、壮麗に復元されている城を見て、時代の変遷というものを実感した。そう、その分、私も歳をとったのだ。私も、時代と共にいささかの豊かさを享受しているのだ。
 加賀藩は凄い藩だ。秀吉の片腕でありながら、徳川家に潰されることなく300年、明治まで生き抜いた。しかも百万石。外様でありながら、徳川に次ぐNo.2の地位を守り抜いての300年なのだ。鼻毛を伸ばし、寝たふり、バカのふりを決め込んだからだと云われているが、本当のバカだったらたちまちにアラを探し出され、改易に追い込まれているだろう。
 徳川の攻め、前田家の守り。この葛藤を何れ読んでみたい。
 また、徳川が前田家を順親藩として扱い続けた理由はなんだったのだろう?生かしておくことで、どのような、メリットがあったのだろう?これも今後知ることが出来たら幸せだ。金沢城は巨城だ。めったやたらに写した写真から数枚を。
**

金箔について
 さて、今回は、金沢の金箔メーカーの工場を見学のために行ったのだ。私の会社は「金箔押し」の仕事を主としている。しかし、我々が使用する金箔は金沢産ではない。金沢の金箔は金を叩いて叩いて(打圧回数5万回)薄く薄く(0.1ミクロンも可能)伸ばした箔である(左写真は今も使われている打圧機械)。我々の材料はアルミを蒸着した箔を使用しているが、この違いは一般の人には解らないだろう。この金を叩いた箔は、紀元前のエジプトでも使われている。日本でも東大寺の大仏様を飾ったことは日本書紀にも明記されている。しかし、いつ、どのように日本に伝わり、どこで製造されたかわ解らない。今後も知ることはないだろう。
金沢は日本の箔の90%以上の生産量を確保している。新規参入者が少なく需要が伸びなくてもそれ以上に供給が伸びないから、業者は皆、お金持ちだ。我々お客に箔押し実演の場を作ってくれる。(左写真)「金箔」は割合イメージしやすいが、「蒸着箔」は多くの人は見たことがない。で、私が講師として説明する時は「皆様、一万円札をお出し下さい。左下の隅にキラリと押してあるでしょう。これが「箔」です。」と始め、「これを見本にお配りすればよいのですが・・」と結んでウケを狙う。皆様も、一万円札を見てください。
 
「明治記念碑」を気軽に見てみる
 城に隣接する兼六園は日本三名園としてお茶席に居るような畏まった気分でいつも歩く。今回は少し時間をかけて歩いたら、「明治記念碑」という、人物の銅像があった。説明文も特になく帰宅し、ホッテおいて、6年間。今、検索して見ると、「西南戦争の時の県内戦死者の鎮魂碑。兼六園とも加賀藩とも無関係。こんなデッカイ銅像を建てる場所がないからここに立っている。人物は日本武尊。九州征討のシンボルとして立っているのだろう。明治13年に建てられた、銅像第一号。九段の大村益次郎像は明治21年、上野の西郷ドン像は明治30年に建てられている。本来は金沢で作られるべきが、高岡の職人の意地で高岡で製造された。全て、金沢に関係が薄く、撤去の話が度々出ている。」
 いいですねー、こういう肩に力が入らない話。気楽にページを閉じることが出来ました。


  
  ■136 鳥越城  
    スタンプ設置場所 白山市立鳥越一向一揆歴史館
    (登城日 平成30年4月21日)


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 増山城、金釼宮を終え、車を鳥越城へと走らせる。車は山道をかなり詰めて鳥越城の本丸直下の駐車場まで行ける。(01)本丸には櫓門(10)が復元され、説明版も行き届き(06)井戸も見ることが出来(09)、カタクリの咲く山道(03)も適当にあり、久しぶりの山城見物が出来た。本丸からの城下も、Yさんの見事な写真で見る事が出来た。(04)
 さて、スタンプ。幸い、設置場所の「一向一揆資料館」はすぐに見つかったが、滑り込んだのは17時を回っていた。帰りかけるスタッフに頼み込んで、スタンプを押すことは出来たが、館内を見ることは出来なかった。しかし、本丸への登城口脇に立つ碑「一揆敗れて山河あり」(02)は、たった一つの「碑」でこの城の歴史が持つ一揆の凄まじい戦いとその凄惨な終末を垣間見せてくれた。
 鳥越城とは?「国指定史跡」の城に対して誠に申し訳ないが、今まで、全く名前も知らない城だった。この城は多くの他の城と違い、城主はたとえ武士であっても城を武士としてでなく一揆の指導者として築いているようだ。九州島原の天草四郎が立て篭もった「原城」を思い出すが、私は島原城は百名城のよしみで訪問しているが原城へは残念ながら行ってないのだ。原城は今回の「続百名城」にノミネートされているが、いつ、行けるかなー。
 一向一揆についても知ることは誠に少ない。かって、歴史上不明な点があれば、司馬師の「街道をゆく」に頼った。今、パソコンで引けば何でも解る時代と思って、師の本を本棚に飾ったままにしていた。久しぶりに、その「18 越前の諸道」を引っ張り出して読み耽り、ようやく、概念をつかむ事が出来た。ありがたや、ありがたや。
 この日は、数々の合戦の舞台となった手取川沿いの道を上り、下り、渡り、渡り返して、小松市郊外のビジネスホテルに一泊。Yさんも自分のホームであるキャンピングカーに敢えて泊まらず、身障者の私に付き合い不本意なホテル泊。しかも、「心配だから」と同室を志願してくれて、数年ぶりの旅の宿を無事過ごした。


  
  ■36 丸岡城
   別名 霞ヶ城
   福井県坂井市丸岡町霞町1-59
   (登城日 平成25年5月18日)


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忠直卿に手を焼いた本多成重
 一乗谷城の小次郎の像に10時半に別れを告げて1時間で丸岡城に着く。Yさんは写真もまたプロの腕前だが、無償でこのツアーの訪問城のホームページに写真も提供してもらっている。彼の城の写真を見てほしい。小振りだが歴史あるこの城が鑑賞できるだろう。
 この城の天守閣は「現存最古」と云われている。「1576年、柴田勝豊による築城」と史実にある由で、「最古」から受ける印象からすると新しい感じがする。「天守閣」の歴史が信長に始まっているのだから当然といえば当然なのだが。
 石垣も古拙。屋根も笏谷石(福井産の凝灰岩)で葺かれて(左写真)いるのが特徴だ。
  天守閣だけでなく、この城はエピソードに富んだ城主が多く、面白い城だ。
 特に、越前国に封じられた結城秀康の長男松平忠直の付け家老から丸岡藩主になった、本多成重がユニークで、天守閣に彼の業績を詳しく記した説明板が大きく展示されている(右写真)。
 その中の「逸話編」から抜き書きをしてみよう。
「小田原城攻めでは家康の娘を救出した」「大坂冬の陣で活躍し、夏の陣では真田の陣を打ち破った」但し「悪名高い暴君、松平忠直の目付け役を申しつけられ、大いに苦労した。結局、忠直が配流となり、成重の丸岡藩主の座は安泰であった」

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ と 吉川市
 この成重は幼名を「お仙」という。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
という名文は彼の父の手紙であり、文中の「お仙」は成重の事である。
 丸岡城にこの碑があるという。誰がいつ建てたか調べられなかった。丸岡町はこの碑から「一筆啓上賞」を創設した。十年間全国から「一筆」を公募して丸岡町の名は全国に知れ渡った。今の「ふるさと創生」の元祖であり、手本である。
 丸岡町は、人口32000人(70000人)面積107km2(31km2)である。人口が5万人に満たないため「市」を断念し、今は坂井郡の3郡と坂井市となっている。
 ところで、()カッコ内は我が埼玉県「吉川市」の人口であり、面積である。何故「我が」かというと、私が2014年に居を移したからなのだ。以前は所沢市に住んでいた。所沢は西武ライオンズのお蔭か知る人は多いが、吉川市を知る人は誠に少ない。早い話、あなたは、場所をご存知ですか?「なまず」のほか史跡も特産品もないこの市を、私が住んだ以上、知名度全国区の市にしてやろう。
達成への努力中に吉川市は隣接する越谷市に吸い取られるか、私の寿命が尽きるかだが。
 スタンプ設置場所が「公式スタンプ帳」には「一筆啓上茶屋」と記載されていて、一風変わった設置場所だなと、楽しみに行ったのだが、残念ながらスタンプは他の多くの百名城と同じく、「入場券売り場」にあった。(右写真)

 それから、このドライブツアーは
 称念寺(新田義貞に墓所。寺を例外的に入れる)、雄島、道の駅こまつ木場潟、白山遠望、安宅関、橋立町北前船の里資料館、小松城
 と、どれをとっても詳しく書きたい史跡を巡って帰京した。鞆の浦同様、いずれ、付け加えアップします。
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▼PHOTO BY YAMAZAKI
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  ■37 一乗谷城
   福井県福井市城戸ノ内町ほか
   (登城日 平成25年5月18日)



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歌舞伎とキャンピングカー
 今回の紀行はYさんのキャンピングカーで。Yさんの故郷は福井県。日本中走りこんでいるYさんのホームグラウンドだから、日本海へ向かう今度のドライブの付加価値は、更に上がる。
 その日私は歌舞伎座で「天守閣物語」を観た。泉鏡花の幻想的な戯曲を玉三郎や海老蔵が妖しく演じる。とても、岩波文庫では味わえない世界だ。この「天守閣」は勝手に姫路城と考える。でも、今回は、芝居がはねた後、歌舞伎座でYさんに拾ってもらって、例によって、音楽と会話を楽しみながら、一乗谷城へ。
(左写真)今回の宿泊地は「道の駅 みずとりステーション」長浜市湖北町今西1731。パソコンで見てほしい、あらゆる機能のアイコンに飾られた道の駅だ。
(右写真)付近に「物部口」の標識がある。蘇我氏との争いには敗れたが日本全国の地下に隠然たる勢力を残した「金」の採掘者「物部氏」大好き人間の私は、早速に写真に収めた。が、この地の由緒は通り一遍の調べでは不明だった。
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*  一乗谷
(右上写真)8時半には一乗谷に着く。入り口の「あさくら水の駅」には「養殖蛍」が観覧可能だという。「餌のカワニナを見たいなー」というと開場前にもかかわらず、開場準備中のお兄さんが、気軽に屋外の流れの中から、カワニナを拾って見せて呉れた。イヤー、そのフットワークの軽さに感激して、ここに、記録に残す次第。
一乗谷城は、「新しい」城だ。信長と覇を争った時代に造られたけれど、木っ端微塵に敗れた後、地方の中心は福井に移され、最近まで地下に埋もれていた。最近、発掘が進み、世に現れ、多くの人が訪れるようになった「新しい」城なのだ。確かに後段のYさんの写真に見るように、タイムカプセルを開いたような見事な復元城下町と庭園が拡がっている。
けれど、何故、一乗「谷」に居を構えたのだろう?最初から押しこめられた狭苦しいイメージが付き纏うではないか。この朝倉家も不思議な家だ。この時代に突然、力を得て、そして小谷城の浅井家との連合に失敗し、あっと言う間に歴史の舞台から去る。
来る前に持っていた疑問は、現地に立っても矢張り納得できなかった。
谷を詰めると、流れは滝になってそこに佐々木小次郎の像が一人ヒッソリと立っている。(右下写真)岩国城下に立つ小次郎は華やかな武者姿だが、ここの小次郎は暗い。ここでも「谷」のドンヅマリというロケーションが悪いのだ。(小次郎は福井の生まれ。この足羽川の支流である一乗谷川のこの滝で「ツバメ返し」を編み出した由)
*
* さて、一乗谷城
さて、一乗谷の城。その肝心の「城」はこの映画のセットのような城下町・庭園の後背の山にある。そして、我々は、登っていないのだ!
鳥取城も「城」を極めていない。しかし、その時は例の長いものに気勢を削がれたという理由があり、「見ていない」ということを知りながら帰ってきた。
今度は違うのだなー。訪問後2年経った今、紀行を書いている時知ったのだ。
さて、再訪するか?さて、あの山城を登れるか?75歳を過ぎると一年一年の著しい体力の低下を自覚せざるを得ない。
さて、再訪するか?出来るか?「げに そは 問はまほしく をかし」(これは、私が青春時代に暗記した佐藤春夫の絶唱『さんま歌』の一節です)
*

▼PHOTO BY YAMAZAKI
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  ■38 岩村城
   岐阜県恵那市岩村町
   (登城日 平成25年3月10日)

    
             ※写真 yamachan

米倉ますみの「女城主・笹百合の花」を歌います!
 この城は、岡山県の68(百名城の番号)備中松山城、奈良県の61高取城と共に日本三大山城であるが、知る人も行ったことがある人も少ないだろう。
 しかし、私はこの辺鄙な山城に来たのは二回目だ。前回は私の病み上がりに山仲間を恵那山登山口まで送り、下山口まで迎えるというアッシーの役をした時、待つ時間にこの城を訪ね、山頂に車を停め、グルリと城と城下町を歩いた。
▼写真をクリックすると大きく表示されます
 今回は「山・車・写真」の三拍子揃ったYさんの車の助手席で楽々と本丸駐車場へ。
 Yさんの写真撮影のお供をしながら城下町へ。前回はここ岩村町出身の下田歌子女史に敬意を表したが、今回は、Yさんの趣味でもある銘酒探訪。町中に幟が立つ「銘酒女城主」の醸造元を見学・購入して、また、本丸へ登り返す。
 さて、サブタイトルの「女城主・笹百合の花」は2012年にリリースされた。
お酒の商標にもなっている「女城主」とは、この城を最前線として武田と織田がギリギリと鎬を削った時代に、一時、城主を務めた「おつやの方」という女性の事である。
この歌の歌詞にあるように「女だてらに城主を務め、今日は織田方、明日は武田」と苦労を重ねる。パソコンの紹介に曰く「織田信長の叔母。織田方の武将遠山景任の妻。武田の武将秋山信友の妻。織田勝長の養母,」
とにかく、このタイトルでは百名城探訪を趣味とする私としては、是非、カラオケのレパートリーに入れねばならないと、早速にテープを購入した。いや、これが、私にピッタリ。音程はー6に調整せねばならないが、マー、歌などどうでもよい。セリフが入っているのがよい。このセリフを、女城主になりきって嫋々と朗じる。さらに発表会のステージでは袴で身を固めて、カラオケの前奏の間に剣舞を人差し、パッ、パッ、エイ!
26年11月以降に私のホームページ「歌の世界」を、是非、御笑覧ください。
岩井三四二「霧の城」とチベット
この本はこの「女城主」が苦闘した時代を彼女が後妻、ではない、「後夫」として迎えた秋山信友の苦闘を詳説している。この小説のおかげで複雑な彼女とお城の歴史に入門できる。戦乱に明け暮れる時、日本中の城が同じように攻防の歴史を持っている。その典型を著者は丁寧に追っている。
 ところで、何故ここでチベットなのか?この本を紹介してくれたのみならず、わざわざ自分の所蔵本を送ってくれた男は学生時代の山仲間で、今も山の縁でチベットのホットな現代史を追及している友人なのだ。彼は、南米アンデスからヨーロッパ、ヒマラヤと世界の一級の山を登り歩いた本格的なクライマーで、ハイカーに毛の生えたていどの私など「山仲間」と気安く呼べないのだが、そこは、60年前の同期のよしみで、何年ぶりに会っても口喧嘩が出来る。
 なぜこんな本まで彼が読んでいるのか?彼、答えて曰く、「この著者の文体が好きで集めている。読むのなら送るぞ」と。答えになっていないのだが・・。

転居とお祝いの写真

 平成26年6月に転居した。築50年の旧住まいからの脱出は妻の永年の、私の百名城完登の夢のはるか前からの願いだった。
 奇しくも私の百名城完登とほぼ時期を同じにヒロちゃんの夢もかなった。
 荷物の運び込みが終わった夜8時、パソコンの接続が私には出来ないだろうと、Yさんが遠路助けに来てくれた。風呂の電気系統も教えてくれた。
 そして、その時、「引っ越し祝いです」と持参してくれたのがこの写真である。


  ■39 岐阜城
   岐阜県岐阜市金華山天守閣18
   (訪問日 平成25年3月14日)

***

郡上八幡城の城主は遠藤氏
 飛騨高山から、祭りに賑わう郡上八幡に出る旅をした。私は郡上八幡城が目的であったが、妻とツアーに参加しての旅だから、到着は夜で、祭を見て翌朝早くの出発で城は外からの瞥見でしか見れなかった。それでも良いのだ。この城を一時治めた「遠藤氏」に挨拶をするのが目的だったからだ。
 どこかで書いたかもしれないが、歴史上、「遠藤」の姓が登場することは非常に少ない。私が幼い時から、たった一人知っている遠藤姓の有名人は、頼朝に旗揚げを共にした文覚上人の出家の前の姓名である「遠藤盛遠」だけである。
 ところが、この遠藤盛藤サンが出家した理由は人妻である袈裟御前に横恋慕し、困り果てた袈裟御前が夫の身代わりとなって臥し、遠藤盛藤サンは彼女を夫と思って刺してしまったからだと云われている。(今回、文覚上人が出家した歳を19歳と知った)映画「地獄門」の原作となる菊池寛の小説や、芥川龍之介、木下順二、手塚治虫等々の錚々たるメンバーがこの出来事は扱っている。いずれ、纏めネバ。
 郡上八幡藩主遠藤家を司馬師が「街道をゆく4 郡上・白川街道と越中諸道(朝日文芸文庫)」で取り上げてくれている。但しだ、「郡上八幡城というのは、戦国以来、城主の姓がいくつか変わっている。戦国期には遠藤氏と稲葉氏、江戸期には遠藤氏が復帰しており、そのあと井上氏、金森氏、青山氏と変遷している」の後、あの褒め上手の司馬師が珍しく切って捨てている。
「ただ、歴代の城主をながめても、べつだんすぐれた人物というのは居そうにない。」
オアトガ、よろしいようで。

岐阜城
 郡上八幡の宿からも岐阜城の天守閣が見えた(筈だ。記憶違いかな?)。が、素通りした。岐阜は近くて遠い。行く度も岐阜を通ったが、あの山頂まで足を延ばせなかった。
 この日(3月14日)は、広島で開門と同時に天守閣に登った頑張りが報いられ、寄ることが出来た。柳ケ瀬を横目にバスとケーブルで山頂に登る。カメラの電池を失って、写真は撮れないが、写真があろうがなかろうが、あの狭い山頂にあんな小さな城というより、天守閣を何故・どのように、建てたのだろう。登って、見て、疑問はいや増すのだが。
 とことん、歩いて降りて、どこにも寄らず、駅に直行して帰宅。
ウイキペディアを読むだけでも波乱万丈、有為転変の城だがメンドクサイ城だ。「難攻不落の名城と云われているが、実際は5回の落城を経験している。」の一文で十分だ。、発掘が進み、信長が接待用に贅を尽くした館が現れかけているとどこかで読んだが、信長の事だ。こんな役に立たない山城は見世物としか思っていなかったと、私は、思う。

***


  
  ■40 山中城(やまなかじょう)
   場所  静岡県三島市山中新田
   (訪問日 平成22年6月10日)
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[まず箱根路を歩く]

 「小田急新宿駅特急券売り場6:45集合」これが前日にKからメールされてきたスケジュールの第一行目だ。続いて「特急券は既に購入してあります」とある。予定通り集まった5人は彼の手配したロマンスカーの先頭展望車に席を占める。鉄道ファンのKがだから道中の景色をより楽しむ為に最前部の席を取ったのかと思ったのだがそうではなかった。車中、皆、話に夢中で景色どころではなかったが、小田原に近づくと「さあ、下りる支度」とKが命じる。小田原駅の改札は先頭車が一番近い。そこを駆け抜けてはじめて彼が予定していた8:45のバスに間に合うのだ。
 Kの計画はいつもこのように緻密だ。彼はこの会に「遠足会」とレトロな名をつけて、我々は彼の計画で幾度もハイキングを楽しんでいる。今日は、箱根路を「ハイキング」しながら、私の強い要望で「100名城」の一つ山中城を探訪する予定なのだ。
 「9:30畑宿より、元箱根へ旧道を歩く」という彼の予定はそのまま行動記録となって、我々はこれも彼の予測通りの晴天のもと、車ではいつも通っている箱根を歩き始めた。

名高い箱根の石畳を、この歳になって私は初めて踏みしめた。

 例によって案内板を読もう。
「江戸幕府は元和4年(1618年)十六夜日記でも知られる旧来の湯坂道を廃し、この街道をつくった。」
 箱根を越える道の歴史は古い。我々、山の仲間でもヤマトタケルノミコトは箱根を越えたか、越えたとすれば道筋は?との議論があった。「十六夜日記」は1279年頃の作品だ。作者の女性は土地問題で鎌倉幕府の裁定を仰ぐ為、京から箱根の坂を下った。しかし、その前に、「更級日記」はうら若き娘が1059年ごろ箱根を越えたことを記録している。
 富士山の噴火があったりして箱根越えの道は度々変わっている。(ついでに付け加えると関東を部厚く覆う「関東ローム層」は富士山だけでなく、箱根山の大爆発で放出されたものである)。今日、我々が歩いている道は「東海道中膝栗毛」で弥次喜多が歩いた道だ。本来なら、他の2作品のルートを考証し、かつ、実際に歩いて、この稿を書くべきところだが、ウーム、そこまで手が、いや、足が回らなかった。申し訳に受験以来初めてこの3作の箱根路の部分を紐解くが、期待した難路の描写はあまりなかった。

 この箱根旧街道の案内板の後半は興味深い。「現在残っている石畳は文久3年(1863年)皇女和宮が降嫁されるにあたり、改修工事をしたといわれている」と書かれている。
 この「国指定史跡」の案内板を書いた人が、和宮はこの東海道を使わず、中山道を使って江戸入りしたという我々でも知っている有名な史実を知らない筈がない。
 と、すれば、この石畳は実際に和宮降嫁の為に改修されたに違いない。なんの為だろう?
道中の危険を避けるための陽動作戦か?あるいは、東海道筋の大名や商人が、ライバルの中山道筋の誘致作戦に遅れを取ったのか?一編の時代小説が書けるところだが。
(そして、私は後に、和宮は維新後、徳川家に皇室からの配慮を求めるために東海道を京へ下り、その役を果たしたのち、再び江戸へこの道を上ったことを知る。しかし、この案内板には明確に工事の年代を「文久」としているので、まだ、小説は書けそうだ)

 私がそんなことを考えている間に他の4人はサッサと行ってしまう。昨日までの雨に滑りやすい石畳の道を急いで追いつく。甘酒茶屋で一服し(Kは未だにタバコを吸うのだ)、お玉が池を覗いて、アレ、すんなりと元箱根につく。
 箱根恩賜公園の気分の良い吹き抜けの四阿(あずまや)で昼食。ウイスキー、ワイン、チーズ、サンドイッチ、その他、その他。私以外の「遠足会」の面々はグルメ揃いだ。男性二人、女性二人が一つ一つ曰くのある銘柄と紹介しあっている。私はそれを指をくわえて見ているだけか。違う。4人は既に私の好みを承知している。「これはエンドウが好きな脂が多いソーセージ。甘い物はこれ」と用意してくれている。私は、ただ、分けて貰って食べるだけ。ご馳走様でした。
 別に時計を見ながら食べた訳ではないのに、食事を終え次のバス停に着いたら発車の10分前。よく出来たスケジュールだ。我々が到着した時、発車しかけたバスがあったが、Kは悠然と見送る。バスといえども彼のスケジュール通りに走らねばならないのだ。

山中城にしかない障子堀のハテナ

 さて、山中城。箱根路にあるから、神奈川県の城と思い込んでいたが、所在地は静岡県三島市、小田原から行けば箱根の峠を越えたところにある。用意周到なKは我々を二駅も前のバス停で降ろし、再度、旧箱根街道を歩かせてくれる。いろいろの碑が多い道だ。司馬師の碑もある筈だが残念ながら見つけられなかった。
 山中城入り口につく。茶店が一軒。「100名城」スタンプは茶店にあるとスタンプ帳に書いてあるので寄るが、「こちらではなく下の茶店です。でも、お城の案内図は人数分お持ち帰り下さい」とはなはだ親切で恐縮してパンフレットを頂き、皆に配布する。

 ここからは、私が案内する。と、云っても案内図に従って本丸、二の丸、西の丸、帯曲輪を巡って、詳細は案内板まかせで歩くだけだが。
 この城が「100名城」に選ばれた理由はここの「障子堀」にある。空掘りの底に土を盛り上げた「畝」を、障子の桟の様に縦・横に配置した堀なのだ。(「畝堀」とも言う)
 数十年前に立ち寄ったときは草むらの中に案内板のみの城だったが、今はこの日も十数人が復旧作業をしており、復旧された所は緑の芝生に覆われ美しい。(写真)

 しかし、不思議なのはこの防御の理に適った「障子堀」が大規模にはここでしか使われていないことだ。この城は、後北条が作った多数の城の一つだが、八王子、川越、忍、小机、その他の有力支城にも見ることが出来ない堀なのだ。これも、後に、けっこう関東の各地の城に使われていることを知るのだが)
 家康を先頭とする秀吉の大軍勢に攻められた時、この城を守る城主は松田康長であった。彼の設計であろうか?松田は今でも小田原近辺に地名として残る。(大井松田など)山中城はこの堀があっても僅か一日で落城した。同じく駿河からの攻撃の備えとして作られた韮山城は百日の抵抗をしたにも拘らずだ。
 後北条の小田原城が「小田原評定」の末に秀吉の軍門に下ったとき、直接の引き金を引いたのはここの城主と同じ姓の松田の裏切りだったと書物にはある。

 こうして、城を散策すること2時間、「下の茶屋」で二人の「歴ドル」(歴史の好きな若き女性。ついこの前までは「歴女」と呼ばれていた。4人が居るので彼女達と親しくお話が出来ませんでしたが)と一緒にスタンプを押し、4人がビールを飲み干し、私がアイスクリームを舐め終ったところに三島行きのバスが来るのだからKも我々も大満足で乗り込んだ。

皆の目的は「櫻屋のうなぎ」?
 三島で、これも今日の「遠足会」の大事な目的である、櫻屋のうなぎを賞味して、さて、三島駅でスケジュール記載の新幹線に乗る筈が、改札口でトラブルが起きた。三島はJR西日本なので我々のJR東日本のスイカは使えないのだ。
お陰で、この日、唯一つ、スケジュール通りにいかず、30分遅れで東京駅に着いて解散したのでした。

平成26年二月
 もう一昔前の訪城記録となりました。写真がどこかにある筈です。自分で撮った「障子掘り」の映像を鮮明に覚えています。しかし、平成22年の時代、Yさんが出現して、私がホームページをもてるなど夢想もできなかった。
自分の記録は文章のみの時代だったのです。たった数年前ですが、懐かしい時代です。
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  ■41 駿府城
   (訪問日 平成23年12月14日)



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水はどこから来てどこへゆくのか?
 

静岡市にも良い顧客があって1970年代の頃、よく行っていた。駅から歩いて城を通り抜け、安東町にある顧客の店を訪れるのが例だった。
 その頃、静岡市ではこの城のお濠の水質の悪化が問題になっていると聞いた。それがきっかけで
他の城、各々のお濠の水が、どのように供給され、どのように浄化されているのか、はなはだ興味を持った。
 城といえば天守閣で、普通の人は天守閣がなければ城を城とは思わない。各地の市役所の観光課の担当者でも「(天守閣がないから)ここには、お城はありま せん」と平気で言い切る。立派な、石垣が残っているにも拘わらずだ。お濠があるにも拘わらずだ。お濠は石垣に負けず城の魅力の大きな要素だが、可哀そうに 各地で埋め立てられ道路になってしまっている。
 だから、なおさら駿府城のお濠が印象に残る。満々と水を蓄えた平城のお濠の美しさは、天守閣や櫓ががなくても、石垣が少なくても、これぞ城だと、充分、主役をはれる存在感がある。
城内の謎のお濠はなんのため?

 左の写真は、城内に折れ曲がった狭い濠である。
 用途はなんだろう?
 荷物を船で城内に運び込んだ水路と説明されているが、
 それにしてはせまい。
 皆さんは、謎を解こうとしてもこの写真では状態が
 よくわからないだろう。

 どのように、写真を撮ればよいのだろう
右の写真は上の水路のお濠への出口である。
写真を見ても、説明しても、よくわからないと思うが仕方がない。

 この水路の用途を写真から解明してもらうことは、あきらめるが、
2枚目の水路の写真

●駿府城は、家康が隠居して入った城である。大御所、つまり実力会長のご機嫌・ご意向伺いで、静岡は江戸をしのぐ賑わいだったというが、当然であろう。
 その賑わいを二代将軍秀忠はどうみているか?どう考えていたか?二代目の悲哀を現代の我々も容易に想像できる。
 ただ、極めつけの狸オヤジである家康の前で、猫を被りとおした秀忠の役者ぶりはもっと評価されてよいと思う。
 秀忠を再評価しよう。家康の後継者候補はは沢山いた筈だ。その中で、秀忠は別に競争者を葬り去ることなく不動の二代目だった。裏面では知らない。しかし、表面的には醜い後継者争奪戦の必要がなかったように見える。
 あの、関が原に遅参するという致命的なはずの大失態をしても、彼の地位は揺るがなかった。
 この「遅参」について。NHK大河ドラマで家康はお江に向かって「難しいのは後継者を戦場で失わないことだ」とそっと教えていた(ような気がする)。そのセリフを頭に入れてこの「遅参」を見直すと、秀忠は故意に、というより家康の内意で上田で無為の日を送ったのではないかと思うのだが・・。
 なぜ、秀忠は後継者に選ばれたか?なぜ、秀忠はこの大失態にも拘わらず、後継者の地位を失わなかったのか?
 いつか、誰かが教えてくれる日が来るだろう。

  問題はもう一つ。私のこの問題意識を、どのように写真で説明するのか?どんな写真を入れたら私の疑問を伝えられるか?




どんな写真を
入れたら
私の疑問を
伝えられるか?




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  ■42 掛川城
   (訪問日 平成23年12月14日)



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●この美しい掛川城は??に再建された。しかし、人気はもう一つ盛り上がらないような気がする。何がセールスポイントなのか今一つはっきりしないのではないか?掛川市としてはこの城の築城者、山内一豊を前面に出しているが、山内一豊といえば高知城であり、掛川には結びつかない。
 掛川というと我々は何を思い出すだろう。残念ながら何も思い出さない。
 日本史の表舞台にも、いや、裏舞台にも登場しない。掛川出身の有名人?
 それも思い出せないのだ。思い出せないだけではない。掛川市や掛川城のホームページをひもといても失礼ながら、へー、この人がという有名人の名前が見当たらない。
 それがなぜ百名城に選ばれたか?
 静岡県にはすぐ近所にも高天神城という、武田・徳川が数度の激戦を繰り広げた全国区の名城があるではないか。
 理由の一つ。天守閣は1994年に復元されたが、それが、全国で初めて「木造」で建てられたからだろう。(公式ページは「大手門は翌年全国初めて復元された」と続くがそうなのか?)

●氷川きよし「大井追っかけ音次郎」

 「箱根八里の半次郎」で衝撃的なデビューを飾った氷川きよしの第二作は前曲に続いて松井由利夫の作詞である。歌詞にいわく

「情け掛川みかんの小枝
 折れば涙の花が散る
 やっぱりね そうだろね」

掛川はここでリリカルに登場する。
この一節を掛川城は表看板に使ったらどうだろう?だめか・・。
●百名城に選ばれた理由のその二つ目。右の写真の「御殿」が残っているからだろう。今の建物は1854年の大地震後の再建だが、現存する御殿は、二条城、川越城など全国的に珍しく、昭和55年国の重要文化財に指定されている。
 24年11月11日に百名城を選定した城郭協会主催の第一回城検定試験が行われた。全国で受験者約???名。
私は新宿で受験したが、受験者の過半数が30-40代の若者なので驚いた。この試験100問中に次の問題があった。曰く「戦後、最初の木造での復興天守閣はどこの城か?」訪城していたおかげで正解が掛川城と知っていたのでうれしかった。
 下記ウイキィペディアからの引用。 
1604年(慶長9年) 大地震で倒壊し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみであった。1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている
大手門
大名行列の人形が
延々と続いている。
 全てを写真で
見てもらいたいところだ。




  
  ■43 犬山城
   愛知県犬山市犬山字北古券65−2
   (訪問日 平成23年12月15日)
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山と犬山城
 「日本百名城スタンプ帳」の表紙を飾るのはこの犬山城だ。つまり、百名城の中でも最高位を極めた日本一の城なのだ。したがって、この城の歴史や構造については、解説・案内は豊富にすぎるほど豊富だし、私も数回の訪問を重ねている。
 だから、あらためて自分の切り口を見つけるのは難しい。「スタンプ捺印の場所が切符購入後の事務所でなければ出来ない。ケシカラン」などとあら捜し、してみたり、天守閣から見た大手道が直線で、城下町らしくないと呟いてみたりする程度だった。
 書くべきタネを探しあぐねていた時、岩井三四二「日本一幸運な城の話」(『PHP文芸文庫 とまどい関が原』所収)に巡り合った。
 著者は女城主・岩村城を舞台に「霧の城」を書いている。1958生。一橋大学経済学部卒という面白い経歴だ。さらに面白いのは、この著者の作品を紹介してくれ、且つ、「読めよ」と送ってまでくれた友人は、世界中の山を登って、その世界では有名人ということだ。
 「山」の本ならともかく、「城」の本を、学生時代に山岳部同期として同じ釜のメシを食った縁で教授されるとは。卒業後、私は登山には熱心でなかった。だから、彼と会うのは十数年に一度という淡きこと水の如き交わりなのだ。それでも、たまに会っての僅かな会話からこんな交遊が出来るとは長生きの余禄かと、ささやかな幸せ感を味わっている。

遠藤と犬山城
 前述の掌編の中で作者は、犬山城を例えば隣の岐阜城を引き合いに、落城もせず、各時代の城主も有為転変する時代を無事生き抜いて幸運な人生を全うしているとして、「日本一幸運な城」の称号を与えている。関が原の決戦の時代に城を守っていた城主は応援に来ていた隣の国の武将に逃げられた。武将は「遠藤というて昔、郡上の領主だった奴ばらが、わが軍勢の留守に兵を起こしたので」(P166)という捨て台詞を残している。
 「遠藤」。私の姓の遠藤の名が歴史に登場する機会は滅多にない。あってもだ。鎌倉時代人妻の袈裟御前に思いを寄せ、困惑した袈裟御前が夫の身代わりになったとも知らず、刀にかけて慚愧のあまり出家して文覚上人となった武士の名が遠藤武者盛遠。後に文覚上人は頼朝挙兵を策して歩き回るのだが、同じ遠藤としては袈裟御前の一件は忘れられない。
も う一人、歴史に顔を出すのがこのセリフの中に触れられている遠藤氏だ。この一族は後に郡上八幡の城主になり、司馬師の「街道をゆく 郡上・白川街道」にも登場するが、あの温和な司馬師に「歴代の城主をながめても、べつだんすぐれた人物というのは居そうにない」と、斬って捨てられている。アーア。

ついでに遠藤関
 遠藤という姓は歴史の中だけでなく、他の世界でも有名人はほとんど居ない。そこへ希望の星が現れた。今、26年の夏、前頭中堅を上下する地位ながら、人気絶頂の「遠藤関」だ。当社では、幕内力士の手形を複製し、本場所会場のみで販売しているが(写真参照)、彼の手形の売れ行きは抜群だ。しかし、いつまでも「遠藤」でどひょうにあがらないだろう。成績が良くても悪くても立派な四股名を貰うだろう。それまで、頑張れ!遠藤!





  
  ■44 名古屋城(なごやじょう)
   別名 蓬左城 揚柳城 亀尾城 
       鶴が城 金城  金鯱城
   愛知県名古屋市中区本丸1−1
   (訪問日 平成22年3月10日)

■名古屋には前に私が勤めていた会社の良い顧客が居て、当時よく来ていたが、城巡りをしていた時代だったにも拘らず、名古屋城を訪ねたことはなかった。いつでも行けると思っていたのと、かつては、お堀の中を電車が走るくらいの「巨大なお城」とのイメージが強くて、見学するには相当な時間がかかると思って後回しにしていたからだ。
 
今の我が社が属する同業組合の全国大会が今年は名古屋で開催された。組合の名は「名刺用紙製造組合」である。日本人のビジネスには名刺が欠かせない。「駕篭に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋をつくる人」というが、「名刺を使う人、印刷する人、そのまた(名刺の)紙を作る人」で、その名刺の印刷用紙を供給するのが我々だったのだ。白紙を名刺の大きさに裁ち、100枚を1箱に入れて販売する業者だ。知る人は先ずいないだろうマイナーな業界だが、全国大会ともなると、30社ほどが東京、横浜、大阪、京都、名古屋から集まった。現在は名刺のユーザーは殆どが自社または自分のパソコンで名刺を作ってしまい、我々の任務はほぼ終えた。業態の変化はどんな業種でも避けることは出来ない。我々のかっての同業者も各々マーケットや製造技術を生かして業種を転換したが、昔のよしみで今でも10社ほどが年に一回、各地回り持ちで親睦会を開いているのだ。
「草鞋をつくる人」も現代的に言えば立派な「靴のメーカー」だ。駕篭など平気で乗り回していただろう。「名刺の紙を作る人」だって・・、と、力むところが年甲斐もない。

 と言うわけで、全国大会といっても議題などない。昼食を共にして「私は100名城を訪ねています」なんてな近況報告をして、二時には解散し、私は会場から地下鉄で一駅の名古屋城に向かう。
ガイドとして、1993年発行の「日本名城図鑑」の名古屋城のページをコピーして持って行った。この書でも「日本百名城」が選定されていて、各城の解説が詳しい。この書と今回選定された「100名城」とは70城が一致している。この名古屋城はいつ、誰が選んでもベストテンにさえ入る城だから、勿論、両方に入っている。
 A3一枚のガイドは「地下鉄『市役所前』で下車し、駅の壁に画かれている『復原城郭絵図』[写真]を見ることから始めよう。入城は東門からが近いが、体育館を横切り西鉄門(ニシクロガネモン)をくぐり正門から入るのがよい」と、親切だ。その案内とおりに歩く。
 地下鉄の地上出口はお城を模している[写真]。二の丸入り口には『元陸軍歩兵第六聯隊第十一中隊』の生存者が昭和51年8月(この『8月』が利いている)に建てた『忠魂』の碑がある[写真]。明治・大正・昭和と、ここは、「城」であり続けたのだ。改めて、「城」は戦闘のためのもので、戦闘は多くの命を奪ったのだ、城を観光スポットとして、訪れるこの平和な時代のありがたさを思う。東門にも正門にもスタンプが置かれていて、二箇所で押してみたが、当たり前だが寸分違わぬものだった。

 さて、ガイドに従って城に正門から入る。西南隅櫓、東南隅櫓(何れも第二次大戦の戦火を免れて重文)を経て本丸に入る。ここでは、戦災で天守閣と共に焼失した「御殿」を復元中で一部工事の見学も出来るし、疎開した内部の襖絵・障壁画は他のところで見ることが出来る。「五層の天守ならびび小天守は鉄筋コンクリート造であるが外形は往時のまま忠実に再現された」と、ガイドにある。エレベータで7階に登り、城の縄張りと名古屋市をじっくりと見てから「下り専用」の階段で各階の展示を見ていく。
 江戸時代の名古屋の町を復元した階には、「本屋」があった。江戸と肩を並べ、「古事記伝」「北斎漫画」などを刊行していた由[写真]。
 その下の階では「3D映画」で今復元中の「御殿」の旧状を紹介していた。
 今年のアカデミー賞の有力候補だった3D映画「アバター」の影響もあるか、平日にも拘らず若い観客で30人ほどの席は一杯になっていた。「御殿」の間取りや障壁画は3Dの力を借りなくても差し支えないが、随時、鳥などが飛んで来て、その度にのけぞるような迫力がある。周りの若者も「オー、これは凄い」と満足しているので、年寄りの私もこれが最新の3Dかと安心して満足した。

 面白いのは、「案内役」として「私が有名な」と自ら名乗りを挙げて7代藩主徳川宗春**が颯爽と登場することだ。宗春は、将軍家の世継ぎを紀伊藩の吉宗と争って敗れた因縁もあり、吉宗の緊縮財政に公然と反旗を翻し、奢侈に走って江戸幕府から処罰された藩主だ。
恐らく、田中角栄の人気が衰えないように、名古屋では今でも大スター扱いなのだろう。日本人は判官びいきだ。加藤清正も人気のある敗者だ。この名古屋城でもあまり関係がない筈の清正が銅像になり、「清正が運んだ巨石」は今でも呼び物になっている。もっとも、この城は大阪豊臣に対する戦略上の城というより、「天下普請」で、清正はじめ外様大名の力を削ぐ目的で巨城にしたのだとの説も有力だ。福島正則が普請への不満を口にして、「イヤなら故郷に帰って徳川との戦の準備をしろ」と清正から強くたしなめられたのはこの築城時といわれている。名古屋城といえば、「金のシャチホコ」だ。火災の際水を吐くというシャチは多くの城の天守に飾られているが、「金」で造ったシャチは勿論他にはない。これも「浪費」が目的だったという仮説をたててみたが、どうだろう。

 さて、天守を出て、「御深井丸」から「西の丸」へ歩く。西日に金のシャチホコが写真を撮ってくれというように美しい。素直に写真を撮って、「二の丸」へ向かう。
ここに立つ「「藩主秘伝之碑」が凄い。この碑には「王命によって催さるる事」と刻まれている。説明板をそのまま写す。「この碑文は初代藩主徳川義直の勅撰『軍事合鑑』の中にある一項の題目で勤王の精神について述べている。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し明治維新にあたっては親藩であったのに勤王帰一を表明したといわれている。」
 隣には佐幕派の重臣を斬首した「青松葉事件の遺跡」もある。
 尾張家は「御三家」の筆頭格で62万石の大大名だ。この天守の博物館でも他の城の展示でみるような藩の歴史を誇示するような年表の羅列は少ない。
 その矜持はよいのだが、幕末の徳川家の危機に際しては、前掲の碑文にあるように、勤王を藩訓としていて、徳川家を守るべき「御三家」の筆頭としては、なんとも相応しくない動きをしている。もっとも、これも御三家の一つ、水戸藩出身の徳川慶喜が徳川幕府の幕を閉めたのだから、血は水より濃くはないのか。もう一つの御三家である和歌山藩の幕末の動きはどうだったか。和歌山城も100名城の一つ。訪問するのが楽しみだ。
 二の丸では他に「危急の場合の城主の脱出門である埋門」を見たかったが、工事中で見ることが出来なかった。本来、秘密のはずの脱出口だから、見ることが出来なくてとうぜんかもしれないが。

 それにしても、別名が多い城だなあ。夫々どのような由緒があるのだろう?どう、使い分けをするのだろう?それを調べるだけでも論文が書けそうだ。

 夕闇に追われて、城を後にする。1993年に書かれたガイドは「数々の特徴ある城下のたたずまいが、老朽化と、近代化の波間に埋没してしまう気配に現状の保存が課題である」と結んでいる。
 現在、その課題をどう解決するか。確かに、「城下のたたずまい」は消えて行っただろう。しかし、一方では、城内に「御殿」を復元中という活力を持っている。我々の同業組合に所属する各社は、衰退産業である「名刺用紙製造」からとっくに足を洗っている。もし、過去に固執していたら、私は、今日名古屋城をのんきに見学など出来なかったろう。
 いやいや、私は、無責任なお城フアンに過ぎない。そんな問題は忘れることとして、ホテルに向かおう。明日は、小谷城を訪問するので、今夜は名古屋に宿を取ったのだ。

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  ■45 岡崎城
    愛知県岡崎市康生町561岡崎公園内
    (訪問日 平成23年12月15日)

** 何故、岡崎城が聖地なのか?

 百名城のなかには馴染みのない城もある。この城もその一つだ。「家康が産まれた城だから徳川家にとって聖地である。歴代の城主は譜代がつとめている」と全ての案内書に書いてある。しかし同時にこの城は、家康が最愛の後継者信康を信長の圧力で自刃させた城でもある。家康にとっては忘れたい屈辱の場所なのに大切にされるのはチト納得がいかないところでもある。
 信康の後見人は石川数正である。数正は後に秀吉にたらし込まされ、秀吉の配下として名城松本城の城主となるが結局は家康の政権下失脚した。この数正の事件の真相究明は諸説ある。山岡荘八のベストセラー「徳川家康」で繰り広げられる家康秀吉パイプ役説が有力であるが、やはり数正は岡崎城派の負け組で、新しくできた浜松城派に排斥されたとみるのが妥当ではないだろうか。その証拠に松本の石川家は数正の息子の代にはやばやと改易になっている。石川家の歴史は面白い。先祖は八幡太郎。そして改易後叔父の何某はどっかの大名になった。城に戻る。浜松派のナントカは三代将軍後は失墜した。ゆえに岡崎城が再び聖地として崇められたというストーリーはいかが?ゆえに、岡崎城が百名城に入り、浜松城が入らなかったというストーリーはいかが?

 石川数正のおかげで少しこの城が身近になったか。それでも岡崎はまだ縁遠い。TVの城下町番組を見てもピンと来ない。浜松出身の友人に聞いても「岡崎にはなにもない」と云うし。
やはり日本史に乗るような出来事がなかった城は印象が薄いのか。
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アラモの碑

坂谷門

堀か濠か
長篠城に救援を告げた鳥居強衛門に似た話が、アメリカ独立戦争時代、アラモの砦であったそうだ。それならこの碑は長篠城内に建てればよいのに。 昔、最初に訪城した時からこの門は強く記憶に残っている。城から直接「水運」に繋がる遺跡が、私は、大好きなのだ。 ここで、論じるほどのホリではないが。

岡崎城 城門

岡崎城復興天守閣

公園案内図





 ■46 長篠城
   愛知県新城氏長篠字市場22−1
   (訪問日 平成20年3月13日)
**** 長篠城と写真
 訪問日を見てほしい。かなり前だ。しかし百名城をはじめたばかりだから印象が実に鮮やかに残っている。豊橋駅で飯田線に乗り換え長篠城駅で降りる。店ひとつない人ひとりいない駅前から、ああ行ってこう行って小さな城にたどり着く。古くてこれも小さな博物館でスタンプを押すが、なにしろ百名城としては根城の次のスタンプ城だから、名城はみんなこんなものだと思って畏まって土塁に囲まれた広場をひとまわりして博物館もひとまわりして大満足だった。
 それから大小あまたの城を見た。あらためてこの城を思い出してみると、小ぶりだけど印象に強く残る城である。
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理由のひとつは、長篠という地名の知名度だ。信長が鉄砲のフル活用に成功したこの地での戦いは日本史上でも有数のイベントだ。ただし、戦いはこの城でおこなわれたのではない。今日はこれから盛り沢山で寄れないくらい城と距離がある。
 城の対岸に鳥居強衛門の墓があってそこまで大きく豊川を下って有海橋を渡って見に行き、無人の鳥居駅でしばらく電車を待った記憶がある。私の記憶は鮮明だ。
 帰途は我ながらすごかったな。三河一宮駅に下車して砥鹿神社の里宮を参拝し、再び飯田線に乗って豊川駅から豊川稲荷へ。さらに岡崎で東海道線だか名鉄に乗り継いで、尾張一宮の真清田神社も見て、宿に倒れこんだ。そりゃヘトヘトになるなあ。
但し、その日泊まった宿の場所の記憶が全くない。これって、自分を褒めるべきか。
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 ■47 伊賀上野城
   三重県伊賀市上野丸之内
  (訪問日 平成24年3月14日)


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「奥の細道」を歩こうか?

 昨夜は同行者と解れ、一人、松阪に泊まり午前中は松阪の城下を見る。11時半頃電車に乗り伊賀神戸で乗り換え、13時半に伊賀鉄道伊賀線の伊賀駅に着いた。右写真が鄙びて気持ちの良い伊賀神戸駅である。
 伊賀といえば忍者の里だ。忍者は山深く人里から遠く離れた場所に隠れ住まねばならない。今回は松阪から入り、和歌山へ抜けるというアクセスをしたが、オーソドックスではどのようにアプローチすればよいのだろう。全く今までに来たことがない土地である。
 「忍者」といっても、ここ伊賀・甲賀の他に居るのだろうか?固有名詞の筈が、日本を代表する普通名詞として使われているのは不思議なことだ。
 芭蕉も、伊賀上野の出身だから忍者だという説がある。「奥の細道」を歩く芭蕉のフアンはほとんど名所を「点」として歩いている。「細道」を「線」として忠実に辿っている記録は少なくないか。あなた、歩いてみる?いやー、遠慮いたします。
 でも、私は、ここで思い出したのだ。月山から湯殿山へ、芭蕉と同じ道を辿ったことを。
 そして、湯殿山への道で、同行者に迷惑をかけるほど大きく後れを取ったことを思い出したのだ。芭蕉この時46歳。私、この時72歳。体力に差があっても不思議はないが、元山岳部員が下山でナサケナイ姿を見せたの最初の経験としてよく覚えているのだ。「芭蕉」と云うと「翁」という尊称がつくからお年寄りと思うのだが、まだ男盛りの46歳だ。それをけさんに入れても紙上で再現する芭蕉の健脚ぶりは顕著だ。生家で当たり前のこととして「忍者修行」をしていたかもしれないな。
伊賀文化産業城
 
 伊賀には芭蕉の記念館も豊富だが時間がない。お城に直行する。現在も発掘中である。
 地元の人々は今なおこの城へ愛着をもっているようだ。
 珍しいことに、この天守閣は「伊賀文化産業城」と呼ぶ。昭和10年、衆議院議員川崎克氏が私財でこの天守閣を建て、このように命名したのだ。同時期に再建された大阪城はコンクリート建築だがこの再建城は木造・瓦葺で、彼の理想に近づけている。
 もともとの天守閣は藤堂高虎が宇和島から伊賀へ国替えになった時に築いたのだが、完成間際、大嵐の為倒壊し、以後、ないままだったのだ。高虎といえば「築城の名手」とセットになっているのにこんな不手際もあるのだ。
 この城の呼び物は「日本一の高石垣」で29.7mある。大阪城にも「日本一の高石垣」があって、こちらは30Mと公称している。丸亀城も「日本一」と肩書を付けているが、丸亀城の場合は、下から本丸まで約20Mの石垣を三段合計して約60M。この高さを日本一と称していて次元が違う。それらは私にとってそれほど問題でない。問題は、カメラの電池が切れて、この天守閣も高石垣も写真に収められずに帰宅したことだ。
 
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 ■48 松坂城
   三重県松阪市殿町
   (訪問日 平成24年3月14日)


 「牛は可哀そう」
 松阪の地名から、何を連想するか?お城を連想する人がいるだろうか?私も連想しない。
松阪城は築城が1588年と歴史が浅く、攻防の史実もなく、どうも印象が薄い。
ウイキペディアをコピーすれば、次の『』の部分の如く、石垣に学術的価値があり、さすが、「築城の名手蒲生氏郷だ」となるようだが。
『松阪城の魅力に石垣がある。名古屋工業大学教授・内藤昌博士によると「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れている。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」とし、近世の先駆けとなる名城としてあげられる。
安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松阪城にもこの時の石垣作りが取り入れられている。石垣のつみ方は「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法が使われている。これらの工法は「穴太衆」と呼ばれる近江国の石工集団が、安土城で今までの日本には無かった新しい築城方法を発案した。蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地元の農民をかり出し石垣をくみ上げていった。石材の多くは近くの河原から集められた石が使われたが、天守台などには古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用された。』
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 松阪といえば、普通、真っ先に思うのは牛肉だ。何故、こんな放牧場にも恵まれてなさそうな土地が牛の産地になったのだろう。
 その問題も興味があるがチト後回しにして、そもそも、牛は可哀そうだ。パソコンを見ていたら同じタイトルの文があった。ただ、この執筆者の云いたいことは、「馬は死ねばそれきりだが、牛は酷使の果ての死後になっても、まだ、肉に刻まれていく」となかなか優しい思いやりだ。
 私が「牛は可哀そう」というのは、馬と対比して歴史上の扱われ方が少ないことだ。
 馬は、「騎馬民族何世紀にどう渡来して、どんな馬具がどこから出土したか、云々」と研究資料は豊富だ。源平の時代は「磨墨」、「池月」と名前まで与えられた名馬が宇治川の先陣争いをするし、信長の時代には、山内一豊は名馬を購って一国の主になる。それに引き替え、牛はどうだ?いつの時代から、日本にいたのか?北条早雲や木曽義仲は牛を使って敵を攻めたというが、他に牛が活躍した史実は?「牛の博物館」は奥州市前沢にある。牛は西日本が主ではないのか?
 あー、調べだすと限りがない。「名馬磨墨の墓」だけでも一篇のリポート、イヤ、博士論文になり得る。ここは「百名城」のページだ。「松阪」のページだ。元に戻ろう。
作詞家になった先輩経営者と本居宣長
 松阪へは同業組合の東西会合の帰途に寄った。毎年、東西の中央である名古屋か京都で行われるこの会合の帰途、良い機会と百名城訪問に精を出した。小谷城、名古屋城などを参照願いたい。今回は、同業の東の最大手の会長が同行してくれる。
 で、夕食は勿論有名店W。老舗面しない応対に好感が持てた。このような落ち着いた和室でスキヤキを突っつくのは彼女と二人でよりこのような現役から半分足を洗って、「何も言わないのが仕事である会長」と二人の方がふさわしいかもしれない。
 ところで、この会長、そろそろ宴も終わるころ、やおら、鞄から原稿用紙を取り出し、「最近、作詞の勉強を始めた。これが近作だ」と見せてくれた。へー、この60年間は、紙関係の仕事一筋、超真面目、既に80歳になんなんとする先輩が・・!と、拝読した。
訪問日24年3月から二年たった現在、この作詞家「いちせ ともひこ」氏は数曲の作品をC.D.にして世に送り出している。「真面目」に何かをするとこうなるのだ。
 ついでに彼の会社名を「山桜」という。机の中の名刺のケースのシールは大概この社名だ。「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」この名高い歌の作者本居宣長は.松阪の出身で松阪城に彼の記念館がある。昼間は謹厳な会長であるいちせ先輩は勿論本家「山桜」に敬意を表することを怠らず、私はそういう彼をカメラに収め、送ったがここでは公開を憚った。
 さらに、宣長はここ松阪の「小津家」の出身の由。小津家は1653年以来、東京日本橋に店を構える小津和紙店の本家で今も松阪の家は「松坂商人の館」として公開されている。紙関連の仕事をしてりる、いちせ先輩共々、この業界の大先輩の館を勉強して帰途に着いた。





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