国内外の旅
HOME

  遠藤ワールド、「旅の世界」です。

目次(各目次項目をクリックして下さい)
国内の旅 海外の旅

■新幹線の車椅子旅
■吉川市一級河川大場川紀行
■称名寺紀行ー吉川市小史ー
■司馬遼太郎記念館
■「作詞家への旅」と松戸市「戸定邸」訪問記
■隠岐の島で「旅」を考える
■黒四ダムと人生選択性定年制

■相馬野馬追祭り
■古河城と関宿訪問
■利根運河
■栃木県さくら市への旅
■加曽利紀行
■益子を我らの新車で訪ねる旅
■下野の古墳を訪ねて
■真岡の鹿古墳を訪ねて
■千葉県勝浦市探訪
■豪華な山と海、富山県を一走り




■中国・三門峡市紀行

欧州百名城⇒こちらから
新幹線の車椅子旅
2022・9
 今回の道南の旅は往復に空路でなく、「新幹線」を使った。時間もコストも航空機より、メリットが大なのは乗る前から解っていたが、新幹線を利用して初めて知った望外の幸せは、新幹線でも改札から座席まで、車椅子のサービスが受けられたことだ。
 新幹線でも、飛行機の旅同様、予約も、書類も、費用も、必要なく、車椅子のサービスが受けられ、しかも、下車の駅にも連絡をしてくれ、快適な乗降が出来る事を初めて知った。

 しかし、それでよいのだろうか?
 物見遊山に出かける勝手な老人や身障者の遊び人を、何で忙しく立ち働く若者が無料で助けなければいけないのか?
 このサービスが欲しければ、それ相応のお金を払うべきだ。

 と、肩身を狭くして車椅子を押して頂きました。
 皆様は、如何、お考えになりますか?
をクリックすると動画がスタートします。


木古内の郷土資料館「いかりん館」

 いつのころからか、我々気ままな「(行き当たり)「バッ旅」」の目的は、各地の「城」と「神社」に「郷土資料館」の訪問が加わった。
 理由の一つに、私の両脚骨折で歩行困難になり、山城は勿論、神社の石段さへ登れなくなったからだ。
 本来の目的地の城や神社の実地見学はÝさん夫妻に任せ、私は、下の資料館でほとんど備え付けてある「車椅子」を借りて館内を勉強していることが旅の定番となっている。

 ただ、郷土資料館見学にはその土地の歴史の勉強に加えてもう一つの目的がある。
 それは、私が住む吉川市の郷土資料館を新設するための資料の一助にするためだ。
 まあ、それは大袈裟だが、こうして各地の郷土資料館を尋ね歩いてみると、我が吉川市郷土資料館はあまりにも貧弱だ。どうか、私の住む市にふさわしい資料館を建設して欲しい。こうして集めたカタログが参考になればなー
という気持ちがあるのだ。

 この人口3700人の木古内町の資料館「いかりん館」も良い参考になるだろう。
 木古内町は山形県鶴岡市と姉妹土地だ。鶴岡庄内藩士が明治18年に集団移住したからで、その縁は通り一遍の姉妹都市の関係を超えて肉身の如く濃い。
 この「いかりん館」の住所からして「鶴岡」だし、館内には鶴岡市の資料が一部屋に大切に展示されている。その展示物の中に、私も荘内土産としてよく知る「いづめこ人形」も贈呈品として飾られてあった。私が思わず案内してくれた館長さん(だって館には一人しかいないのだから)に「お返しは何を贈られたのですか?」と訊くと館長さんは弱りはてたという顔をして「それで、弱っているのですよ」と。私も、ひどく、同情した。

 「いかりん館」は8年前に廃校になった学校を使って開館した由。
 昨日開館したようなチリ一つ落ちてない整理が行き届いた、気持ちの良い資料館だった。
をクリックすると動画がスタートします。





北海道道南の神社

 北海道道南をいつものように駆け足で走り抜けたが、思いもかけず、多くの由緒ある神社の数々に出会い嬉しかった。
 何と言っても、この地は縄文の昔からの世界遺産にまで登録された土地に近いのだ。

1 お由緒書を頂いた神社
(1)上ノ国八幡宮御由緒 





(2)姥神大明神由来

**  
2 写真に残る神社
(1)雷光神社

**
▲神社全景 右に神社名の石碑と
その左に石灯篭が立っている。
▲石灯篭台座。
「昭和62年 北島音楽事務所」と、ある。
▲神社名石碑裏側。
「昭和60年 北島三郎」と、ある。
▲この地は北島三郎誕生の地。
下手に銅像など建てないで神社にさりげなく奉納する。
北島三郎さん!見直したぜ!



(2)志苔館御祭神。函館を含む各地の「舘」の主か。
(3)木古内佐女川神社  木古内の冬の禊の若者4名の迫真の記録がYouTubeにある。 




吉川市一級河川大場川紀行
2022・8・6
 自分が住む埼玉県や吉川市のことを出来るだけ知りたいと思う。
 両方とも地味な県であり、市であるので、なかなか報告するのが難しい。
 埼玉県について知ることは、「市」の数が40で日本一である、くらいだ。
  (因みに二位は愛知県の38市。三位は千葉県の37市。ついでに、「町」は北海道がダントツで129.二位は福島の31.「村」は長野が35で一位。二位は沖縄の19。)

 吉川市にも郷土資料館がある。勿論、私は引っ越してきて真っ先に訪問した。田んぼの片隅の廃屋となった民家。無人の家の内部は、一間に雑然と農機具が置かれているだけであった。私は、全国の三本の指に入る珍しい貧弱な資料館とおもう。
 吉川市は東は江戸川で千葉県に接し、西は中川で越谷市に接している川の「市」だ。
 にも拘わらず市の名になっている「吉川」はどこにもない。この面白さは、これまた、私の引越し以来、市の住民、市役所その他の方々に片端からカランダ話題である。

 吉川の代わりに大場川という一級河川が流れている。江戸川、中川と異なり、吉川市で生まれ市内を流れ市外に出たところで中川に合流して短い生涯を終える。

 ナイル川を持ち出すまでもなく、利根川にしろ、多摩川にしろ、川の源流の最初の一滴を極める遡行は楽しくもハードな山旅だ。
その源流が吉川市内にあるとは!
幸い、江戸川区の住民だが山男のYさんも興味を持ってくれた。更に、有難いことに、吉川市の住民Mさんがナビを買って出てくれた。

 吉川市役所で落ち合って走り出してすぐと、Mさんが大場川の起点へ案内する。Mさんの自宅はこの近所だ。だから、わかるのだが、この草むらの中知らぬ人が見つけるのは不可能に近い。只、見つけたことに満足して、起点の文字を確認しなかったのは不覚であったが。(写真・1)
 そこから、つかず離れず大場川に沿って下る。(写真・2)。見たかった大場川の合流地点も写真に収めてもらった(写真・3)。

写真・1

写真・2

写真・3
 パソコンで検索してみると、いろいろな人が同じように大場川沿いを歩いて写真を投稿している。その中で、私の紀行写真の特色は「文字板」が好きなことだ。
 これらの写真(写真4~7)の文字は、私が書きたいことをかなり書いてくれている。
 「大場川は1675年関東郡代伊那忠常が実施した干拓事業により産まれた」「流路延長17?。流域面積40km2」「埼玉県は県土に占める川の面積割合で日本一」「吉川市の水と緑を活かした散歩道を作ってゆくこと」などなど。
大場川は吉川市を出たところで、ナント!直角に右折して堂々たる大河となって大場川水門で中川と繋がる。

 陽はまだ高いが、我々は律儀に吉川市に戻ってささやかに打ち上げ会をして解散した。
 「埼玉県は県土に占める川の面積割合で日本一」と知り、私と同様、多くの県民・市民が「川こそ埼玉県或いは吉川市の観光資源だ」の意見を持っていること知った収穫のある、
小旅行だった。

写真・4

写真・5

写真・6

写真・7
をクリックすると動画がスタートします。

称名寺紀行ー吉川市小史ー
「特別展 春日神霊の旅 杉本博司 常陸から大和へ」を観て 
2022・2・9

 私は、今、埼玉県吉川市に住んでいる。と、大見得を切っても、吉川市がどこにあるか、知る人は少ない。ある後輩が「吉川市は遠藤先輩が住んで、有名になりましたね」と実に気の利いたおべんちゃらを言ってくれたが、そうはならないことは確かだ。

 埼玉県は市の数が40あって、これは日本一なのだ(二位は愛知県の38)。吉川市はその県の中でも人口といい、面積といい、下から数えたほうが早い目立たない市だ。
 私はこの市へ2014年(平成26年)3月に所沢市から越してきたが、越して来て寂しかったのは目立った史跡がないことだった。
 また、「郷土資料館」に行ってみたが、私が回った数十の全国の郷土博物館の中で、貧弱さにおいて、確実に三本の指に入る小さなあばら家だった。

 しかし、感心したこともあった。市の真ん中に「保(ほ)」という地名が残っていることである。辞書によれば、「保」とは律令制から平安、中世を通じての行政区画の一単位の由で、江戸時代を更に遡ってこの地の由緒を物語る地名だ。
 もう一つ感心するのは、吉川市の「市史」の立派さだ。そのうちの座右の一冊、「吉川市史6冊目となる『吉川市史通史編 Ⅰ 原始・古代・中世・近世」。今、改めて発行年月日を見てみると、ナント、平成26年12月!幸運にも私は、引越し直後に最新の吉川市市史を購入することが出来たのだ。
 もっとも、購入はしても182×257のB5判600ページ以上、目方の報告もしたい超重量本。私は迷わず製本をバラバラにして数十ページづつ読むことにした。

 そのバラバラ本の160ページから。南北朝・室町時代の吉川が横浜市金沢区の称名寺に年貢を収めている記事がある。
 今、2022年2月、コロナ禍の真っ最中に、称名寺に隣接する「神奈川県立金沢文庫」で「春日神霊の旅 杉本博司 常陸から大和へ」という魅力的な特別展が開かれると知った。
 幸い、マチさんは神社だけでなく仏閣にも関心がある。純さんも引っ張り出して、3人で吉川から称名寺に年貢収めのドライブを試みた。

 金沢文庫は初めて入館した。特別展は不思議なことに展示室内が暗くて、展示物がよく見えない。文庫側の不手際かと、車椅子を借りた受付にクレイムをつけると受付嬢が困り果てた顔で「皆さんそうおっしゃいます。しかし、出展者のご意向で・・」と、消え入りそうな声で言う。
 それでは仕方がない。これもこの受付で購入した「芸術新潮一月号 杉本博司と日本の神々」を瞥見すると杉本氏は世界的な写真家・建築家そして、コレクター。金沢文庫でさへ、彼の言いなりだ。まして、次元がはるかに違う我々俗人の言うことなど、聴くはずはないな。
 とにかく今日は、解らないことがわかった。また機会があれば、少しわかるだろうと、この歳になるとかえって気長になるものだ。

 車椅子のままで小さなトンネルをくぐって称名寺に行く。私のホームページには珍しい「仏閣の写真が登場する。マチさんは念願の御朱印をゲットし、私は食べ放題の焼き肉店に満足して15時には帰宅。


司馬遼太郎記念館
訪問日  2021年12月5日
住所   大阪府東大阪市下小阪3-11-18
 コロナのおかげで大阪訪問が延び延びになった。大阪は城もだが、或いはそれ以上に「司馬遼太郎記念館」を訪問したかった。

 今回、岸和田城、飯盛城、芥川山城の登城も、そこそこに、念願の司馬遼太郎記念館を訪問した。満足だった。司馬師のフアンは大勢、大勢いる。しかも、熱狂的フアンがざらにいる。ようやくその驥尾に付すことが出来たのだ。

 館内、そのフアンの熱気に支えられている部分も十分に感じて大満足だった。

 土産に私の杖に貼る小さなシールを頂いて大事に貼り付けている。



「作詞家への旅」と松戸市「戸定邸」訪問記
2021年5月16日
 作詞家への旅

 
コロナで旅行は大分自粛した。5月の連休は沖縄を計画したが、私の唯一の同居人が反対するので、同居を続ける以上、私が折れて、Y夫妻に強行してもらって、私は家にいた。
 家にいても、今までの旅の整理やら、新しく始めた人生の旅、「作詞家への坂道」の準備やらで忙しかった。
 作詞家への新しい旅はコロナによって始まった。コロナでカラオケ・ルームが閉ざされ、声が出なくなったので、近所の「ヴォイストレーニング教室」に通い始めた。教室のトレーナーがMachi先生。シンガーソングライターとしてCDも出している女性だ。聴いてみると歌声は勿論のこと、自作の「詞」がユニークで美しかった。早速に、70枚以上購入して友人・知人に配布したが、多くの人から好評を得た。私も、と、作詞の指導を申し入れたら、快く承諾してくれ、更に、作曲の手配もしてくれ、Machi先生が歌って、CDにする段取りをつけてくれた。
 
 おかげ様で、幼い時は文学少年、成長して演劇青年であった私の「作家への夢」を、この齢になって実現させてもらった。
 新しい人生の「旅」が始まったのだ。
 年内に仕上がる予定の我々(!)のCDの写真は、いずれ、このホームページの「歌の世界」を飾る筈だが、ここでは、Machi先生のCDの写真を載せておきます。

 松戸市「戸定邸」訪問記

 5月16日は千葉県野田市の清水公園「花ファンタジア」でMachi先生の野外コンサートがあって、私が送った先生のCDを聴いてフアンになってくれていたY夫妻と聞きに行く予定であった。
 ところが、朝の小雨でコンサートは中止になった。
 今日は仕方がない。次回を楽しみにと、今日はかねて行きたかった松戸市の戸定邸の見学に行くことにした。
 「戸定邸」は「最後の将軍徳川慶喜」の弟徳川昭武の晩年住居である。年表を下記するが年表だけを見ても実に変化に富んだ一生を送っている。
 敗軍の将、徳川家はかくも優雅な充実した人生を送れたのか!
「一将功成って万骨枯る」と思わざるを得ない。

 昭武年表
  1853(安政 2) 1歳  第9代水戸藩主徳川斉昭の18男として駒込で生。
  1864(元治 元) 12  「禁門の変」「天狗党の乱」にて一軍を率いて出陣
  1867(慶応 3) 15 パリ万博に将軍慶喜の名代として派遣
  1868(明治 元) 16 新政府の命令により帰国
  1869(明治 2) 17 第11代水戸藩主。のち、水戸藩知事。北海道北部、統治。
  1875(明治 8) 23 陸軍少尉。中院道豊の娘、盛子と結婚
  1876(明治 9) 24 フィラデルフィア万博でアメリカへ。その後、フランスへ留学。
  1881(明治14) 29 ロンドンに半年滞在後、帰国。
  1884(明治17) 32 老いの篤敬に家督を譲り、戸定邸に隠居。
  1892(明治25) 40 次男・武定が子爵になったのを機に「松戸徳川家」創設。
  1910(明治43) 58 江戸、小梅邸(現隅田公園)にて死去。


隠岐の島で「旅」を考える

2019年10月13日
**  
 私の高校の同期、近藤節夫氏が共著であるが新刊を出した。「新世代の観光立国」(交通新聞社)である。その中で彼は「旅が生まれた経緯」の一文を載せている。アフリカ大陸に誕生した人類が拡散した「旅」から書き出す壮大なエッセイである。
 その文に刺激され「旅」について考えた。
 取りあえず、「旅」の定義を検索してみると良いことが書いてあった。
 「旅は行程重視。旅行は目的地重視」
 
 我々、Yさんとの旅の正式名称は「しろたび(シロウトがシロをシロうと旅をする)」であるが通称は「ばったび(行き当たりバッタリの旅)」である。何故この我々の旅の趣旨にぴったりの「ばったび」が正式名称にならないかというと、残念ながらこの名前は既に他の人が使っていて、もし我々が使えば盗用になり、オリジナルを追求する我々の趣旨に反する。いずれにしても我々の旅は「行程重視」で「百名城スタンプ集め」の「目的地」はあるものの、行程に史跡・神社・酒蔵など興味を惹くものがあれば、ためらわず寄ってゆく。

 今回は隠岐の島が目的地の一つであった。我々の旅で初めての離島への旅だ。離島への旅は難しいことは想像できる。天候次第では足止めを食って予定通りいかないだろう。
 だから、行くのだ。私は何故こんな離島が天皇他の流刑地になったのか?彼らはどんな船で往復したのか?などに興味を持った。歴史を検索すると、縄文の時代から本土のみならず大陸との交流が盛んだ。

 我々のアシは車だ。島へ行くには埼玉の我が家を早朝、いや、深夜に出ねばならない。それなら、いっそ、前夜出よう。幸い、Yさんの車は本来キャンピングカーなのだ。私が身障者になってからはその機能を発揮できないのだ。えいやっと私が寝ちまえばよいと、前夜、我が家に迎えに来てもらい、Yさんは夜どうし運転し朝、港に着いた。

 これが「旅」か?と疑問に思ったのが本編を書くきっかけなのだ。「旅」は「行程」なのではないか?いきなり目的地について、これが「旅」か?しかも、パートナーのYさんは一晩中運転をしている。ならば、どうすればよいのか?

もう一つ、今回、疑問が起きた。
それは、旅の帰途をどうするか?である。
 「東海道中膝栗毛」彼らは行程を楽しんで目的地に着いた。彼らの帰途はどうしたのか?
 「西遊記」これも目的地に着いた。そして、帰った。その行程は?
 これから、調べてみよう。

 隠岐の島の帰途は、台風に追われ、大きなフェリーも揺れに揺れ、はなはだドラマチックであった。つまり、大いに行程が印象に残り、これぞ「旅」との実感を持てた「旅」だった。
 この島の紹介は同行のYさんのブログが完璧だ。また、道中のお菓子店の城(写真・1)、河原城(写真・2&3)、島へのジェット船の写真を添付しておきます。(写真・4)                   以上
**

写真・1

写真・2

写真・3

写真・4


黒四ダムと人生選択性定年制

2019年5月27日の黒四ダム旅行
**  「すぎな会」と云うのは5年前に所沢から吉川に引っ越すまで通っていたカラオケの教室の事である。大学同期が世話役をしていたので、生徒には同期の友人が多かった。齢と共に友人たちが「自然減」してゆき、年に一回の一泊バス旅行の参加男性はこの会の会長である同期の友人一人になってしまった(女性陣は約20名参加)。
 で、その友人の招聘があり、私が参加することになった。
 団体旅行だから、和室だろう。となると、畳に敷いた蒲団から起き上がらねばならない。リハビリの施設で、その練習までして旅に臨んだ。
 行き先は長野。初日の善光寺と二日目の黒部ダムは、彼と私に「車椅子」が用意された。実は彼は、肺炎を煩い歩行が困難なのだ。只、喋ることには支障はない。歌だって歌える。
 カラオケの会のバス旅行だから道中、次々と歌う。彼もマイクが回ってくると、いつもの美声で乱れなく、持ち歌を歌った。歌わない間、我々二人の会話は途切れることなく続いた。
 中央高速の帰途、双葉SAでトイレタイムを取った。歩く速度は彼と私は良い勝負だ。
二人でヨタヨタとトイレに行き、二人でヨタヨタとバスへ帰った。私は席に着いたが、彼が来ない。バスの入り口で蹲り、そして意識を失い倒れたのだ。
 パーキングエリアだから救急車はすぐに来た。応急の人工呼吸をしても意識は戻らず、矢張り教室の生徒で、この旅行に同伴していた彼の夫人と共に病院へ運ばれた。バスの我々はもう歌どころではなく、静まり返って、解散地の八王子駅前に戻った。そこへ、夫人から電話があった。「只今息を引き取りました」と。

 6月3日にお通夜。告別式にも出席した。席上で会う友人や電話がかかってきた友人にこの顛末を話すと、10人中9人が即座に「なんという羨ましい死に方だ」と云うのには驚きもし、納得もした。死を待ち望んでいるのは私だけではないと、実感した次第だ。

 7月21日に「参院選挙」が行われる。そこに「安楽死を考える会」が各県に立候補者を立てている「自分の寿命は自分で決める」との論理だ。代表を含め、皆、私から見れば若い人達だ。その年でよく「死」を考えるものだ。
 私も昔から「人生選択性定年制」を主張してきた。自分で自分の人生の定年を決め、その年になってまだ生きていれば、そこで再度、生死を選択し、死を選べばしかるべき機関がしかるべき手段で、生を終わらせてくれる、というシステムだ。
私が生きている間にこの制度が確立されれば嬉しい。彼らと共闘してみたい。
**



相馬野馬追祭り  2018年8月15日

**  アメリカ大陸には馬がいなかったという。スペイン人が持ち込んだ馬にインカ帝国民が驚愕し、戦意を喪失した話は有名だ。それから100年も経たぬのち、新大陸のインディアンは全員馬に乗って、白人開拓者と戦った。馬の繁殖力も流石だ。
 さて、日本。日本列島にも馬がいなかった。古墳時代のある時期から急激に馬具や馬の骨などが現れた。その事実から江上波夫氏は壮大な仮説「騎馬民族征服王朝説」を発表し、昭和の一時期を席巻した。当時少壮の考古学者佐原真氏が学会の大御所江上氏に対し必死に反論をした対談は今でも私の記憶に生々しい。
 この説の是非を論じればキリがないが、当時から疑問に思ったのは、馬をどのように大陸から日本に輸送したか。当時、造船所に勤めていた私にとっては身近な問題であった。
 いまだに正解を知らない。誰も実験をしてくれないからだ。
 今、新しい疑問は、馬が何故関東・東北の特産になったかである。大雑把に西日本は牛の文化、東日本は馬と、割り切るのは無理としても、名馬がみちのくから供給されてきた、と、云ってよいと思う。関東、みちのくの馬も京の朝廷の支配下で発達したのか。

 相馬野馬追祭りはそんな疑問に答えるヒントとして重要な祭だろう。この祭りの歴史を紐解くと平将門から始まるのでビックリする。将門はこの地まで勢力を伸ばしたのかと。
 違うのだ。将門の子孫が相馬氏を名乗りこの福島に土着したのだ。だから、相馬と将門子孫の千葉流山とは縁が深く両市は現在姉妹都市となっている。初めて知った。
 とにかく昔は、野馬を駆り集めた行事だったらしい。そして、今は三神社の神事として引き継がれている。

 祭りは7月28・29両日に行われる。我々は28日に行った。台風の余韻で、適当に、雨が降り、人出が少なく且つ涼しく、絶好の見物日和だった。馬のパレード、競馬の一部を間近に見る事が出来た。(写真1~3)相馬に宿が取れず郡山に戻って宿泊した。翌朝、郡山から相馬に戻った時は、駐車場も一杯で、身障者の私は祭りを間近で見る事が出来なかった。同行者も「来年を期す」と潔く諦めてくれて、相馬城と神社見学に切り替えた。
**
写真・1 写真・2 写真・3
**  相馬氏とは、上総で伊勢神宮の相馬御厨を管理していた千葉氏の一族である。相馬氏は南北朝初期に、先祖が頼朝から与えられた福島県に進出し、太田神社付近に最初の居を構えた。(写真4と5)その後、城を小高に、そして、中村に移した。鎌倉時代から明治まで、約700年も続く家柄は、島津、相良などに匹敵し、世界的にも珍しいと云われている。
 今回は、私の故障した足の関係で、小高城も、中村城も、未だ見るところが多いらしい城址をほんの一部しか見ることが出来なかった。神社の建物も石段の下から仰ぎ見るに止まってしまったが。(三神社のお由緒書きを揃えられた事を、ささやかな満足としている)
 神社は三つとも、千葉氏一族の神社らしく妙見様を祭っている。中村神社の本社建築は国の重要文化財に指定されている(写真6)。
**
写真・4 写真・5 写真・6
「百名城」とあって驚くが、中山良昭氏の個人の選定。 相馬中村神社
相馬中村神社
相馬小高神社 相馬小高神社絵馬殿と絵馬(馬・馬・馬・・・)


古河城と関宿訪問  2018年3月25日
桃と梅の違いは?
 Yさんの企画で「古河桃祭り」にドライブ。
春が来る度に、桃の花と梅の花を見分ける方法に悩んでいる。この悩みは私だけでないらしく、パソコンで検索すると忽ち「見分け方」に、多数、ヒットする。曰く、「花が枝につき方が違う」「花びらの形が違う」「木肌が違う」など。ただ、残念ながらこれらは傍によってジッと見なければ解らない。車や電車の車窓から遠くの紅色、桃色の満開の花を、「あれは梅」「あれは桃」と一刀両断できないのが惜しい。
 結局、ここ数十年、多くの人からの教えを纏めた私の自己流のチェックポイントを使わざるを得ないようだ。それは、①花の咲く時期が違う②桃の花は串刺しの団子のように花をつける③梅の木は枝が錯綜して木登りに適さない。デス。
 「梅まつり」は各地であるが、「桃祭り」は多くはない。ここ「古河桃祭り」は人出も多く、「ミス桃祭り」も花に花を添え、(写真1、2)賑やかで良いお花見ができた。テントの売店もある。そのうちの一つが「電子タバコ」を展示していたので付き合った。今まで、訪問地でいつも「一服」の写真を撮ってもらっていた習慣を絶やしたくないからだ。(写真3)
 ただ、配られたパンフレットには「日本一の花桃の里」と、ある。「花桃」と「桃」はまるで違うように思うのだが・・。私の隣の市、八潮市の市の花は「花桃」だ。今年で13回目を迎える「中川やしおフラワーパーク」での祭りは最初から「花桃まつり」とタイトルされていてスッキリするのだが・・。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
写真1 写真2 写真3

古河城は何処に?
 享徳4年(1455年)[京都では康生と改元したが鎌倉は認めず]足利成氏が鎌倉から古賀に本拠を移し、初代「古河公方」。となり、その後約130年引き継がれた。室町時代から戦国時代の歴史は誠にややこしいのだが、古河公方の名は常に登場する。その居城が「古河城」であるが、こちらは歴史にはあまり登場しない。そして、現代も、地図にはあるが、存在していない。実に不思議な城なのだ。
 その城を探して、戌年のYさんは車を河川の上下・左右に走らせる。そして、遂に、標識を見つけた!土手の上のサイクリングロードの傍らだから、車では見つかり難いのは当然だ。土手の上まで私の足では攀じ登れない。いつものようにYさんの写真に依頼するほかはない(写真4,5)。私は下から覚束ない手足でYさんの雄姿を写すだけだ(写真6)。
 この案内板のアップ(写真7)を読むと、この城は江戸時代はおろか、明治の初めまで威容を誇り、明治43年に渡良瀬川改修工事の犠牲となって失われた由である。昭和の時代でも
高速道路で大部分を失った小机城、新幹線の駅の下になった三原城、その他枚挙にいとまがないことだが、・・。
 パソコンで偶然、この案内板を建てた有志の方たちの苦心話を読む事が出来た。感謝だ。

 北海道で百名城の一つ、「チャシ」を尋ね、見つけた時に似た感激を味わいながら、古河市内に車を走らせ、「頼政神社」、「篆刻美術館」、などに寄る。数十年前、妻と城巡りした時に、城跡と教えられて寄った「古河歴史博物館」、「鷹見泉石記念館」は、古河城出城諏訪曲輪の由で今回はパス。大きなお城だったのだなあ。
 《話は全く別だが、郭、廓、曲輪、の違い。更に、この字が吉原などの色町に使われているのはなぜか?誰か、教えて頂きたい》

写真4 写真5
写真6 写真7

 利根川・江戸川・中川・そして、吉川は何処を流れる?
 関東平野の川は勝手気ままに流れていたという。それはそうだろう。しかし、その地で、戦いは絶え間なく続いている。関東武者の強さは馬にあった筈だ。この川の水、湿地帯で馬は縦横に働けたのだろうか?
 ま、そんなことはともかく、家康が、あるいは、伊奈一家が利根川をはじめ関東の治水に成功した功績は大したものだ。利根川東遷と云う。元はどうであったのか?どう付け替えたのか?これを時間をかけて勉強したい。

 それには、先ず、現地を見てみたい。取りあえず、江戸川を分岐した場所に行きたい。
 地図で見るとそこは関宿だ。早速に帰りに寄ってもらう。私がかってこの地に来たのは「関宿城」を見るためだった。威風堂々「城」が建っているが、勿論、模擬天守で本名は「千葉県立関宿城博物館」という。館内は、今、最もありがたい「近現代・近世の利根川・江戸川」の展示が豊富なのだ。今日は、とても、観きれない。4階の展望室で江戸川の分岐をジックリと見て、関宿水閘門を遠望して、再訪を期して引き上げる。
良い博物館だ。シルバーは他県人も無料だし。(写真8,9)
写真8 写真9


■利根運河を訪ねて   2017年12月9日
流山市

 私の住む吉川市(埼玉県)の東端には江戸川が流れ、そこを渡ると流山市(千葉県)である。流山といえば、すぐにこの地で自害した近藤勇の名が思い浮かぶ全国区の地名である。その点、埼玉県人でさえ知らぬ人が多い我が吉川市と訳が違う。
 流山市は近藤勇の陣営の他にも見るべき史跡は多い。「流山」という地名そのものも、「市内の小山は赤城の山から流れ着いたからだ」と、ユニークな伝承を持っている。また、小林一茶の逗留地や古墳、神社などが豊富にある。
 幸い、この地に長く住み、生来の世話好きで、土地の民生委員やら自治会役員やらを務める大学の同期生が居て、足の不自由な私を憐れんで、度々、彼の車で流山市内を案内してくれる。そのうち主な史跡は、
(1)三輪野山貝塚

▲三輪野山貝塚 説明版
クリックで大きく表示されます
(2)茂呂神社
 これも説明版をアップして読むと、「式内社であること」「この地が早場米の生産地として万葉集にも載せられていること」などが、要領よくかかれている。書いた人は「氏子」としか署名がない。それだけに、学識・人格、申し分のない人と推測できる
 

利根運河
  
 「運河」は私だけでなく狭い日本に住む我々日本人にはあまり縁がない・・、だろう。
 世界三大運河とは「キール」(1895年完成。98k)、「スエズ」(1869年完成。193k)、「パナマ」(1914年完成。80k)の由だ。なぜか、中国の「大運河」、610年に完成し、2500Kの文字通りの大運河は入っていない
 日本は?琵琶湖疏水、高瀬川、などがあげられるが何れも10k程度であり、この「利根運河」でも約8Kと、ささやかなものである。むしろ、江戸幕府が行った利根川の付け替え工事に感心し、関心を持つが。

 東武野田線運河駅近くの「運河水辺公園」車を停め、NPO法人コミュネット流山が運営する、「利根運河交流館」に入る。(山崎さん0002挿入願います)展示物はなく、一人の事務員がパンフレット、書物などを販売している。数冊を購入し、よく整備された運河に沿った道を、車を走らせてもらう。左岸に「割烹新川」がある。明治25年創業の旅館をそのまま使ったという風情充分のレストランで、パンフレットによれば、一橋大学のボート部もこの旅館を、合宿に使用した由。
▲利根運河交流館 ▲流山市観光協会発酵の絵図 ▲利根運河の生態系を守る会
発行のパンフレット
それぞれクリックすると大きく表示されます
 後で、購入した複数の「崙書房」発行の書物を読む。立案者広瀬誠一郎、協力者の茨城県令人見寧、設計者のオランダ人・ムルデル、資金繰りに苦労しながら1890年完成させた志摩万次郎など。そして、数年の全盛期ののち、鉄道の完成による衰微、追い打ちをかけた水害でこの運河は、本来の目的を果たせず、現在は観光施設として再起を図っている。

 今回は江戸川への出口は見る事が出来た。しかし、遡って利根川からの取り入れ口は見る事が出来なかった。併せて、利根川の東遷工事探求の第一歩もこの近辺から始めてみたい。これを書いている1月下旬は大雪が続いた。春が来たらS君、よろしく頼みます。








■栃木県さくら市への旅         2017年11月19日
勝山城跡

 例によってYさんに7時に来てもらい、出発。9時に城跡の広い駐車場着。寒さと、動きがなかったために両足は膠着している。Yさんに励まされたり、手助けされたりして、階段を登り、大手に架けられた橋を渡って本丸へ。
 久しぶりの城見物だがこの城の魅力は「昭和」に造られたことだ。一度、観光施設に成り果てた城を町が整備して、今見るように、空堀・土塁を旧に近づけて公開したことだ。
 城主は氏家氏。何故、氏家城でなく勝山城なのか。また、「さくら」市というネーミングもあまり感心できないが。2005年、喜連川町との合併を機に、小学生3人の命名とウイキペディアにある。折角、見事に山城の雰囲気を伝えてくれる名城にしたのに惜しい気がする。
 鬼怒川を城から遠望し、また車で川べりを走って堪能した。


紅葉狩り

 今年の春、しもつけに古墳を訪ねたときは桜・菜の花・ラベンダーの三色の「三春」を楽しんだが、今回は紅葉だ。Y氏の写真をご参照ください。見事だ。
 しかし、なぜ、紅葉見物を、紅葉「狩り」というのだろう?ごもっともな疑問だが、「桜狩」という言葉もあって、藤原定家の和歌や芭蕉の句にも使われているそうだ。「いちご狩り」「キノコ狩り」「ぶどう狩り」の言葉は我々普通に使っているし。
 私の場合、「紅葉狩」といえば絢爛たる歌舞伎の名舞台だ。ついでにウイキペディアしてみるとここでの「紅葉」とは女性の名前で彼女が鬼女となったのだそうです
今宮神社

 「楽宴会」(大学同期約50人の月例スピーチ会)で今度は「百名城」でなく「百神社」をテーマで話してみたい。神社が如何に分らない存在かを説明し、只々、今まで集めた『御由緒書』を展示してみたい。ここの所、神社を訪れても『御由緒書』の蒐集は疎かにしていた。
 幸い、今日、予定どうり参拝できた「今宮神社」は、丁度七五三で賑わっていて、A4一枚のコピーではあるが『御由緒書』を頂けて満足した。多数の氏子の氏名が刻まれた鳥居奉納の芳名碑もこの神社が地元に根を張っている様がほの見えて頼もしかった。

「華とはな」

 この単語を知っていますか?土曜日と日曜日にしかオープンしない畑の真ん中にポツンと立つお蕎麦屋です。女性だけで運営してるといういかにもYサン好みの名店です。
 Yさんは夫妻でドライブ中偶然見つけた由。お金持ちにはお金が向こうから来るように名店好きには、名店が向こうからくるよです。







■加曽利紀行               2017年6月24日
 土偶について友人が紹介してくれた土偶の本に誘われて千葉県加曽利博物館に行った。
加曽利貝塚は 訪問日の一週間前に特別史跡に指定され地元では盛り上がっていると、ニュースにあったが行ってみると広々とした駐車場は閑散としていた。
 実際、史跡が特別史跡に昇格すると、どう変わるのだろう?
この疑問は文化財でも言えることだ。土偶を国宝に指定してもらうため努力がこの本に書かれてあった。しかし国宝になると重要文化財以上の補助金でも出るのだろうか?

▼画像をクリックすると大きく表示されます

 そんな疑問は別にして、例によって車椅子を借りて館内一周。古い博物館だからバリアフリーへの気くばりが欠けていると思うが、仕方ないことだ。
 真っ先に土偶をみるか、完成品がシヨウケーススの商品のように並べられているので臨場感がない。仕方ないではないか。この加曽利貝塚だって、坂の上の住宅街にあって、現代では波の音も、潮の香りもしない。この海のカケラも見えないこの公園では、どう創造力を働かしても私には貝塚の全体像をイメージ出来ない。初心者だから仕方ないことだ。


 そこから、手賀沼へむかい、道の駅しょうなんの気分の良いレストランで食事をする。「しょうなん」とは手賀沼の南という意味か。この南側にも、眼鏡を2.5から3.5に変えて見ると古墳だの城跡だのがあるのだが、ざっと走っただけでは見つからないので、帰途につこう。
 北側の白樺文学館は前に訪ねたことがある。志賀直哉、山崎宗悦、武者小路実篤等の遺品を見、その夫人達のピアノ演奏を聴き、「扉あり 入るべきか 出るべきか」という恐ろしく意味深い文の絵葉書を買って帰った記憶が鮮明だ。
で、今回は寄らず、埼玉県でも意外に近い吉川市の我が家に帰った。


▲道の駅で一服

益子を我らの新車で訪ねる旅               2017年5月27日

「家出カー 第二号」

永年、永年、労りながら乗り続けたY氏の「家出カー」が、商業施設の駐車場で安らかに大往生をしたと、知らされた。Y氏いわく「長年連れ添った、家族の一人を失ったと」(享年19年、35.5万キロ走行。戒名「家出院旅汽車捨負和金居士」)。
 心臓部が部品を替えるなどの手当てでは再起不可能の由である。人間に、特に老いた我が身には身につまされる話で、詰まらない連想は止めて、ただ、冥福を祈ろう。
 
 幸い、Y氏が拘ったスペックを備えた車が入手でき今日はその試運転を兼ねたドライブだ。
最後の旅となった
丸塚古墳での
先代家出カー

※画像をクリックすると大きく表示されます。


小山市田間「血方神社」と吉川市「蕎麦高神社」

 朝7時に、我が家から出発。
 4号線を快適に下っていくと今日は早目に「血方神社」の看板を見付けて寄ることが出来た。何といっても名前がオドロオドロシイので一度寄ってみたかったのだ。
 神社は無人でお神楽の説明板と神楽殿はあるが、お由緒書きは頂けなかった。帰ってパソコンに頼れば良いと甘く考えたが、パソコンでもご由緒はなかなか見つからなかった。
 どうも、我々は「血」の字に引きずり回されているようだ。近くの「智方神社」加須市の「千方神社」、日光の「智賀都神社」、松本市の「千鹿頭神社」あるいは、「ちかつ神社」、「ちかと神社」など「血」の字から解放されると様々な関連の神社が拡がるようだ。
 しかし、写真にあるように「血方神社」の狛犬さんは牙を赤く血塗られているのだ。いつの日か塗った人の意見を聞くことが出来るだろうか。

 日本史の場合、この漢字で書かれた情報から、我々は時に大きな誤解をしてしまう。私の住む吉川市には「蕎高神社」という大きくはないが小さくもない神社が数社ある。一方、
 超、大神社の「香取神宮」の第一摂社は「側高神社」と言い「利根川下流域には「そばたか」と社名を読む神社が多く分布する」とウイキペディアにはあった。私はこのことを大林太良氏の「私の一宮巡詣記」で知って嬉しかったのだが。

道の駅「益子」

 この「駅」は2016年10月にオープンした新しい「道の駅」だが、流石、老舗の焼き物の町名を名乗るだけあって、店内のレイアウトも、並ぶ商品もなんとなく垢抜けている。
 この「なんとなく」というのは気のせいかも知れないが、矢張り重要だろう。益子町に敬意を表す。Yさんが100円ショップで見つけてきた身障者のステッカーを車に貼って、身障者の駐車スペースに車を停め、トイレに行って、タバコ一服の写真を撮って、何も買わずに退散してきた。

「いい里 さかがわ館」

 益子や笠間、新大宮などに、かって私は複数のホームコースを持っていて、日帰りやら、泊りがけでゴルフに耽っていた。バブルと呼ばれていた時代だ。
 その時にこの路はしきりに往来していた筈だが、この蕎麦屋さんには気が付かなかった。当たり前だ。創業10年の新しい店なのだ。しかし、Y氏がわざわざ寄るだけあって、建物は新しくても、味も、従業員も充分に年季が入っている。
ここでも一服他儀式をすませ帰途についた。

石臼挽き地元そば粉100%使用の二八そば

あたらしい「家出カー」を背景に一服


下野の古墳を訪ねて                   2017年4月16日

しもつけ風土記の丘資料館

 例によって、7時に来てもらい、日曜でもまだ交通量の少ない4号線を走る。朝食はY夫人の心尽くしの「おいなりさん」を車中で食べる。9時、ピタシ、開館時間に「しもつけ「風土記の丘」資料館」に到着し、入館。館備え付けの車椅子に乗る。

 「しもつけ」は漢字で書けば下野だ。歴史は古い。そもそもこの辺りは律令では「毛野」と呼ばれていた。毛野が二つに分かれ「上毛野」と「下毛野」となり、肝心の「毛」が消えて「上野国(コウズケノクニ。群馬県)」「下野国(シモツケノクニ。栃木県北部)となる。不思議に我々は上野や下野をルビなしで自然に「コウズケ」「シモツケ」と読めるのだが、何故「コウズケ」は「ス」に濁点で、「シモツケ」は「ツ」なのだろう?千数百年の歴史を数日で理解出来る筈もなく、この辺で諦めよう。

 この歴史の長さに比して「下野市」は2006年に南河内町、国分寺町、石橋町が合併してできたまことに新しい「市」なのということも初めて知った程の初心者なのだから。

 館名では「風土記の丘」も引っかかる。「毛」の国に「風土記」はあったのか?そういえば、房総でも「風土記の丘」に行った記憶がある。ウイキペディアにまとまった解説があるので少し長いが引用する。


▲しもつけ風土記の丘資料館にて
(写真はクリックすると
それぞれ大きく表示されます)
 文化庁では1966年に風土記の丘設置構想を発表し、これに基づいて同年には最初の風土記の丘である「西都原風土記の丘」がオープンした。
 次いで、翌1967年には「さきたま風土記の丘」、1968年には「紀伊の国風土記の丘」、1969年には「立山風土記の丘」、「安土風土記の丘」が開設され、2007年現在では、全国16か所に風土記の丘が設けられている

 「風土記の丘設置要項」によれば、風土記の丘は、古墳・城跡等の遺跡等を広域保存するとともに、歴史資料等を収蔵・展示する資料館を設置することによって、遺跡と資料の一体的な保存や活用を図ることを目的としている。
              (ウイキペディアより)


▲琵琶塚古墳

 という訳で、「風土記」には直接関係ないのか。この16カ所の「風土記の丘」の中には、那須、さきたま、などと共に、数年前にこの「バッタ旅」で訪ねた山形県の高畠町も含まれている。我々が寄ったのは「高畠町郷土資料館」だけで「風土記」はカットしたかな?


三春

 館の出口で一服し、古墳へ向う。少し走って琵琶塚古墳駐車場。ここでは、先ず、花の見事な写真を見てください。花は一瞬。古墳は永劫。我々、同行二人は名うての晴れ男だ。前日、翌日の悪天候もにも拘らず今日はこれぞ春という絶好のお花見日和。梅・桃・桜が一度に咲くから「三春」と言うわが故郷もものかわ、桜・菜の花・そして名を知らぬ紫色の三色の花。その向うにあるのが琵琶塚古墳です。私は車の中。花の写真を撮り終えた後、Yさんが一回りしてくれました。(尚、我が三春城はこの度、「続百名城」に選ばれました)


▲琵琶塚古墳

さて、古墳


 全国に城の数は、数万。神社は8万。それに対し古墳の数は驚いたことに16万!(内訳、兵庫県16千基。以下、千葉県13千基、鳥取県13千基、福岡県11千基、京都府11千基とつづく。平成13年3月末 文化庁調べ)

 今回の古墳もそうだが、よくこの人里に、1500年の長い間、保存されているものだ。先ずそれにホトホト感心する。私は、古墳に白石太一郎氏「古墳とヤマト政権」(文春新書)で入門した。この書は、この膨大な数の古墳を、地域は勿論、円墳・前方後円墳・方墳などの形、全長・高さなどの大きさ、などで整理・分類している。そして、その客観的数値から、いわゆる古墳時代の日本の政権構造を導き出していて、説得力充分だ。

 今回入手した下野市・壬生町・上三川町の教育委員会発行のパンフレット「古墳」はこう纏めている。『これらの古墳は全国がまだいくつかのブロックに分かれていて、統一されていないため王者が各地に居たことを示します。しかし王たちは各々割拠していたのではなく最大の勢力であったと考えられる畿内地方の大王を盟主に仰ぎ、それに従属的に同盟することによって王者としての地位を補強しあっていました。このことは、全国に分布する古墳が墳形だけでなく埴輪や葺石、埋葬設備の構造、副葬品の至るスタイルがほぼ一定の斉一性(きまり)を持っていることから判ります。また、このスタイルは規模・量の面で相互に明らかな格差を持っていることから王にもランクがあったことがわかります』



今日は、琵琶塚古墳。


 この膨大な古墳に一つ一つ名前がついていることも驚きだ。この古墳は空から見れば琵琶の形をしているのだろうが、いつの時代に鳥の目を得て、名を付けたのだろう?

摩利支天塚古墳

 ここでは車を降りたが、高さ約10Mの後円部頂にある摩利支天社までは登れなかった。多くの神社の原型はこのような古墳に祀った社だろうと、学者ぶって推論してみる。

丸塚古墳

 この古墳を探しにYさんは私のカンと反対の方向へ車を走らせる。エーっと思う間もなく、丸塚古墳。「よく解りましたね」と感心すると「私は戌年だから」とコトモナゲ。

 畦道をバックで入り込んでもらい、横穴式石室を覗きに歩く。小さい室だが、使っている石は大きく、立派な石組だ、と、城博士を気取る。尚、この石は栃木産の大谷石の由。



▲琵琶塚古墳


▲摩利支天古墳にて


▲摩利支天古墳

▲丸塚古墳


今市へ

ここから、壬生町を通って今市へ。壬生の地名は新撰組の京都の拠点として名高い。栃木県の壬生は京都とどんな関係にあるのだろう。検索ではありそうに思えるが今回はカット。

今市では、「二宮尊徳記念館」と「船村徹記念館」を館備え付けの車椅子で見て、おそばを食べて、帰宅した。「船村館はどうだった?」「ウーン、イマイチだった」

おあとが よろしいようで。

▲二宮尊徳記念館


▲「日光の庄」で昼食



真岡の鹿古墳を訪ねて
    2017年3月26日

イチゴ

第二回の足骨折もようやく杖を突けば歩けるようになり、また、Yさんの「家出カー」でのドライブを企画してもらった。施設の朝食をキャンセルして7時に施設を出発したから最初の目的地「道の駅にのみや」には9時前に着いた。こんな早い時間にと言う勿れ、イチゴ目当ての人たちで駐車場は既に一杯。そこで一パックを平らげ次に向かう。


二宮尊徳資料館

 入場料無料。立派な紳士が二名案内につく。車椅子まであるので借用しこじんまりした館内一周。二宮尊徳というと道徳というイデオロギーで寄り付きにくいが、二宮金次郎というと実践・実務の人として尊敬に値する。Yさんは金次郎が「幼くして両親を失い、離婚もし、武士でもないのに武家社会で出世している」その人物像に感じ入っているが、同感だ。名前だけは知っているが生い立ちや生涯を知らなかった。これから知りたいものだ。

陣屋

 資料館から車椅子のまま陣屋へ向う。平坦とはいえ砂利道だ。Yさんに押して貰うが力が要る。「ナーニ、大丈夫ですよ」と返事する声が既に息が上がっている。

 真岡市にも城があった。宇都宮家の配下、芳賀氏の城で城下町の名残も市内にある。らしいが、残念ながらよく見ることが出来なかった。
 しかし、宇都宮家が秀吉により改易されると真岡は小田原藩の飛び地になり、さらに天領となった。1783年のことだから、天領としての歴史は浅い。同じ、天領の飛騨の高山などに比べるとこの陣屋は、質素この上ない。
 ここに金次郎は住んだというが、井戸こそ立派だが、どこで寝たのだろう?

二宮神社

 隣だがこれも車椅子で悪路を押して貰って。しかし二宮神社にはいささか恨みがある。もともと「二宮」は「一宮」に対応して、全国全ての令制国にあるのだ。二宮金次郎の二宮にしても、彼の生地が今も東海道線の駅名に残る「二宮」(相模の国の二宮、川勾神社)

だからなのだ。全国で「一宮」巡りをしている人は多い。で、私は、「二宮神社」巡りを今もしている。二宮神社を見付けていざ行ってみると、ここと同じように「二宮尊徳」を祭った神社だというケースにぶつかるのだ。(先の館のスタッフ曰く、全国で80か所あると)

 仕方がない。注意するしかない。この神社の狛犬さんは昭和の時代に奉納されたとあるが、まことに世を経た面魂をしていた。車椅子を館に返して、次へ。
▼画像をクリックすると大きく表示されます

大前(おおさき)神社

 延喜式内社は全国で2861社、下野国で12社。この神社はその一社ではあるが、10円のご由緒書きとパソコンを読む限り、延喜の時代のこの神社の歴史が解らない。この神社の両部鳥居も同じで、成程、両部鳥居の構造は判ったが、この鳥居を持つ神社の共通点が解らない。但し、十数メートルに及ぶ「管内神社のご紹介」の案内板は他にはないものだ。

 この神社は「現代」に熱心で、巨大な恵比寿像やバイク神社(足尾山神社。この神社の由緒もワカラナイ)5種以上の御神籤などお客集めの種が豊富だ。
▼画像をクリックすると大きく表示されます

真岡にはたくさんの神社がある



真岡のラーメン

 真岡はSLの街だ。先の神社見学中にも汽笛と蒸気機関車が走る音が聞こえた。流石に駅も立派で、観光案内所も完備だ。Yさんがその案内書に市内の「ラーメン」の名店を訊きに行ってくれた。女性スタッフの推薦店へ、彼女の心許ないヒントを頼りに車を走らせて着いた店はなんと、市外。ラーメンの味は良かったが、市の案内所が市外の店を紹介するのは、なんとなく、後味がよくなかったね。

 なぜ、「ラーメン店」に拘ったか。施設は一時に多人数に食事を供するので、伸びてしまう麺類は出ないのだ。で、外出時は麺類が食べたい。帰途の夕食は日本蕎麦屋に寄った。
▼画像をクリックすると大きく表示されます

ラーメン工房くろべぇ(栃木県市貝町赤羽)

味噌チャーシュー


物部氏

 この旅では珍しく行程の下調べをした。
真岡市の東端に「物部」の地名があると知り、「物部」大好き人間の私は胸をときめかした。山形県高畠の宿泊地では信号に「物部口」の名があり写真に収めてきた。 
 今回は上手く見つかるだろうか。あった!
古墳を見付けるためにアチコチしている時に「物部採石株式会社」の大きな看板!無断で写したが、もし、クレイムを付けて頂けたら、これは幸い。いろいろ物部の話を聞けるだろう。

 (翌日会ったKR氏にこの話をすると、彼は、ゴールデンレイクスC.C.のメンバー。ゴルフ場近辺には物部小学校・物部中学校・物部郵便局などがゴロゴロある由)

真岡の鹿古墳群

 白石太一郎著 「古墳とヤマト政権」(文春新書)は全国の古墳を年代順に並べ、ヤマト政権が「連合体」の主として成立してゆく過程を判りやすく纏めてくれた名著だ。おかげで、ようやく、古墳に興味を持つことが出来、今回の旅の主役になった。

ナビにも定かでない、無名の古墳を畑の中で探す。この車は保険に入っているか?と、心配するほど脱輪ギリギリの狭い農道を走る。こんもりした小さな茂みを一つ一つ潰してようやく、鹿古墳群に辿り着く。小さな円墳。それを祀る屋根にタップリと枯葉を残した社殿。それでいて新しい弊紙が奉げられており、草に覆われていても長い参道が今に残る。

 この真っ平らな畑の中にどうして古墳を造ったのか?周りに豊富に流れる河川が一度氾濫すればたちまち流されてしまうだろうに。この広々とした田畑にいかにもいかにも邪魔ゲに残っている古墳の杜を、農民の皆様はよく千数百年の間、残しているものだ。

そして、この古墳を神社として拝む。成程、神社の起源の一つを目の当たりに出来た。

 最初の古墳見学行は、実に、有益なものだった。
▼画像をクリックすると大きく表示されます





■千葉県勝浦市探訪
  2016年10月2日

早朝、7時きっかりにラフェスタ吉川美南にY氏の車を迎える。この家出カーでの史跡探訪は5年前の兵庫県竹田城訪問を手始めに年に数回、北陸・東北などをキャンプして回ってもらった。
 今回は日帰りだ。私が1年前に右足骨折してリハビリ途中だから仕方ない。私にとっては、事故後の最初の記念すべき旅なのだ。

 千葉県に行こう!ただし帰りは19時頃にしたい。これだけの私の希望を聞いてY氏の家出カーは走り出す。何故私が千葉に行きたいのか。千葉県は私が住む埼玉県の当面のライバルなのだ。テキを知らねば。私は千葉県をゴルフ場と佐倉城、大多喜城、館山城、関宿城、千葉城程度しか知らないのだ。アクアライン(高速代800円と安くなっている)経由、9時勝浦朝市見学。

 勝浦市は首都圏の市で唯一人口が2万人を割り込んでおり、一番人口が少ない市である。2014年(平成26年)4月1日には総務省から過疎地域に指定[された。20歳前後の人口が突出しているが、これは市内にある国際武道大学の学生である。国際武道大学の学生が市の全人口の約1割を占める。(ウイキペディア引用)
 吉川市の人口7万人。勝った!(自慢にならないが)

 早速だが、ニンニクだのイワシのフライだの、Y氏は馴染みの特産物の買い出しに余念がない。
私は、神社のご由緒書きと御神籤集めに余念がない。朝市の外れにある「遠見岬(とみさき)神社」へ。垂直な石段ははなから取っ付かないが、石段下の社務所で入手したご由緒書きは300円したがA4、16ページ、多色刷の小冊子。内容も読みでがある。要約は下記のウイキペディアのコピーに任せるが、教科書には載ってない神々が歴史上の人物になって生き生きと活躍している。

 「神武天皇の側近として活躍した天富命は、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸した。そして祖神である天太玉命を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。天日鷲神の後裔の勝占の忌部須須立命は、八幡岬突端富貴島の天冨命の居跡に社殿を建立、開拓の祖神として祀ったのが当社の起こりとされている。なお、勝占の忌部が住んだこの地は勝占と呼ばれるようになり、「勝浦」の地名の由来といわれている。」

 阿波と安房、那智勝浦町と勝浦市。この関係も神の名の下に明白だが、何故か学者は「神話」として扱い、「歴史」としては扱わない(ヨウナキガスル)。

 この神社の御神籤もユニークだ。買って帰り、写真に撮る。私のホームページの新しい項目、「全国神社 御神籤・ご由緒書き蒐め」のスタートである。乞うご期待!(と、大見得を切るが誰も見てない、聴いてないか)

 其の後、Y氏行き付けの、いや、定宿の繋船石柱公園で一服し、「勝浦城」「お万の布さらし」へ登る!緩い勾配だが、それでも百歩の山道を休み休み完登した。頂上(!)のベンチで15分ほど長々と伸びて大休止。Yは48キロの私を背負う積りでこの小山へ案内して呉れたのだ。

 帰途に就く。Y氏は仕事でもないのに何故か日本中の道を知っている。しかも数回の訪問も厭わない。「道の駅」だけでなく各地のスーパーマーケットもこまめにチェックしていて、ここには無料の味噌汁があるのだと停まったりする。その度に私もトイレと一服の写真を撮りながら勉強する。多少の渋滞があったが、予定通り19時帰着した。

▼画像をクリックすると大きく表示されます。
勝浦朝市にて 遠見岬神社ご由緒書き 繋船石柱公園で一服 勝浦城址前にて
勝浦城址開設板 お万の布さらし 於萬の方像前にて 養珠院於萬の方、開設板




■豪華な山と海、富山県を一走り(2015年8月)


8月8日
学生時代山岳部だから山には登っている。
しかし、トロッコ列車には乗ったことがない。
「それは気の毒。乗せてあげましょう」とYさんは今回のキャンピングカーの予定を宇奈月から始めてくれる。
前夜20時30分に日暮里を出て今朝1時半に「宇奈月 道の駅」着。仮眠をとる。
早起きして取りあえずトロッコ電車の始発駅に7時に着き乗車券を確保する。酷暑を避けて登ってくる観光客が群がる一足早い時間だった。
終点の欅平を散策して帰る。


▼画像をクリックすると大きく表示されます。
黒四ダム
一世を風靡した映画をみてない。しかし、こうして黒部川に次々に建設されたダムを案内されると、ここにダムを作ろうと発想した人間に恐れ入るばかりだ。宇奈月にも欅平にも入場料を取らない博物館があってそこで丁寧に説明されているがここは吉村昭の「高熱墜道」を一読しねばならないだろう。
黒部川。高山から海へ一直線に流れ落ちる川。平野をつくって一休みすることをしないでただV字に谷を刻み込んで奔流となって海を目指す。この流れと発電を結びつける。考え付くのも素晴らしいが、実現した工事の人々も大変な人達だ。見て初めて実感できる。
その難工事については前述の吉村氏の著作は迫力十分に書き込んである。しかし、工事に取り掛かる前の企画の部分の記載はごく少ない。この急流に発電所を作ろうと発想した人たち。どんな人達だろう。
 
キャンピングカー
山を充分に堪能したら次は海だ。富山湾の魚津では、今夜「たてもん」と云う行事があるのだ。Yさんは我々が神社・仏閣に寄るように地元のスーパーに寄り、主婦のように地元の食品を仕入れ、夕食に供してくれる。地元の「道の駅」に早目に場所を確保して、手早くデッキチェアとテーブルを組み立て、二人はそこにドッカと腰をおろして彼が下ろした鮮魚や、例えば富山なら「べっこう」などという土地の人しか知らない郷土料理を肴に宴を始めるのだ。
私も少しづつ覚えて手伝おうとするのだが今のところ全く役に立たないし、彼もいささかも私の手助けを期待をしてないようだ。
今夜は、まず花火。目の前の海から上がる花火は大きく、迫力満点。写らないことを確認するためのように写真を撮ってみる。

魚津の「たてもん」
花火が終わると人々は諏訪神社の「たてもん」に参加するためにゾロゾロと動き出す。
どこにこんなに沢山の人が居るのか?
しかも若い人が居るのか?
須賀川の火祭りを見て以来、私は日本の祭りのフアンになった。
リオのカーニバルと比べても劣らぬ立派なものなのだ。
「たてもん」は秋田の竿灯のように提灯を三角形に高く積み、台に載せた7台を大勢で引き回す祭りだ。
ここにも若きリーダー達が各々の台を仕切っていて頼もしい。

富山の北前船
富山の道の駅の向かい側に「四十物昆布」というお店がある。「四十物」には「あいもの」とルビが振ってある。この由来は頼みのパソコンが故障中で詳細不明だが利尻昆布はこの地で下され加工されさらに肥料となって富山の大地を豊かにした。と、耳にしている。
富山市の北前船の寄港地は「岩瀬」。ここには酒田の本間家と肩を並べる森家という海鮮問屋があり、お屋敷を入場料案内人付き100円という超低価格で公開してくれている。
今、パソコンが不調だ。富山に関して地図・港・城・藩の歴史を調べるのに時間がメチャかかる。「岩瀬」もそうだ。
三津(安濃・博多・堺または坊津)・七湊(三国・本吉・輪島・岩瀬・今町(直江津)・土崎(秋田県)・十三湊)。造船から入った北前船は日本の歴史に大きくかかわってくる。
パソコンによると岩瀬の大きな問屋は馬場・米田・もり・畠山・宮城の5軒であり、特に大きな問屋は馬場家の由。それはそれとしてここから帰途を急ぎました。

立山・富山湾。豪華な山と海をセットにした大満足の旅でした。
(ついでに、満足・不足に足が使われていることに注目しましょう)
▼画像をクリックすると大きく表示されます。
魚津・魚の駅「生地」にて 北前船の町「東岩瀬」にて






■中国・三門峡市紀行(2009年4月)

●2007年4月18日
 5:40西所沢発。7:30日暮里駅スカイライナー乗車。書道雑誌出版社K社長夫妻、同社編集長H氏。K夫人の友人S嬢。と会う。7:30成田。書道家O氏夫妻と会う。
この7名が今回のメンバー。9:30機発。
 中国の便なので、つい、アラを見つける。曰く、「ビーフ?フィシュ?」と訊かれ、「フィシュ」と答えたのにチキンが出る。(H氏そこで一言。「キチンとしてよ」。)イアフォーン、一つ穴の座席に二つ穴をもって来る。スチュワーデスは客席に目配りせずに只歩く。云々。
 北京着11:30.これは、現地時間。東京時間10:30.時差1時間。
慌しく乗り換えて、鄭州へ。例によって、窓際を譲ってもらう。広大な土地が隅々まで耕作されていて、歴史の永さを感じる。面として広大、永さとして悠久。この中国を「知る」など、最初から諦めている。自分の住む所沢の歴史さえ、定かではないのだから。
 
 鄭州着16:20。紙に殴り書きしたのではない、大きな字で「K氏一行様」と印刷されたボードを持った人の出迎えを受ける。雑誌社が出版する、(我社「和香」が印刷製本)季刊誌(400ページ。半分カラーのページ。)がトランク3個。その他、私物のトランクをマイクロバスに積み込み高速道路を延々4時間。今回のメンバーの年齢、(S13、17、20、30年生。女性は不問)、出身(江ノ島、栃木、宇都宮、秋田、札幌、津久井の湘南)、現住所(所沢、越谷、茂原、相模原)など、気持ちよく会話が弾む。窓外の景色もこのルートでさえ数回経験しているK氏の的確な解説で退屈を知らない。「あれは、石炭発電所。だけど、電線が伸びてない。」「紫だけど桐の花ではない。桐を街路樹にすると根が持ち上がって不適。」「同様に、水田の周りには木はない。水を吸ってしまうから。」「黄河は東に流れるだけではない。北へも、南へも流れる。こんな河は他にない。」
 21:30三門峡市着。遅い時間にも拘らず大勢の出迎えを受ける。チェックインなど不要。荷物を部屋に運んでもらって、遅い時間にも拘らず、宴会。市・組合・書家、大勢と、名刺交換。そして乾杯につぐ乾杯。23:30終宴。予定表にもそうなっている。
 但し、ここで、事件。通訳として紹介されたのが陳さん。黒子社長と思わず顔を見合わせてしまう。前回、開封での書の交流会の時、彼の通訳で、多大な時間と労力と感情の無駄を使わされた強烈な記憶があるのだ。今更、仕方ない。私は個室でバタンキュー。

●4月19日
 7:30朝食までホテルの周り散歩。片側3車線、並木があって、側道があってまた並木があってそして歩道という堂々たる大通り。これは、所沢にはない。但し、大通りを一歩はずれると、小屋がけの住居と下着姿の住民。これも、所沢にはない。
 8:30 昨日のバスで、三門峡博物館へ。大勢の人。民族衣装をつけ、チャルメラ、太鼓の楽隊と踊る一群。近寄ってくると皆さんかなりのお歳の男女。かと思うと、小学生、中学生、の一団。真っ赤な中国服の美女達が我々に「来賓」のリボンを付けていく。やがて、壇上に案内される。「三門峡市主催中日韓国際書画百人展」のここが会場であり、今は、開幕式なのだと壇上で、初めて知った。我がK社長、O氏始め壇上の要人が次々と紹介されていく。幸い、私は素通りだ。時々、学生たちから歓声がおきるのは、自分達の先生が紹介された時だ。K社長はかなり中国語を勉強しているのだが、この地では訛りが強く通じにくい由。それでも、挨拶の冒頭に中国語を入れて、大いに受けていた。スピーチもようやく終わり、解散。博物館内で書を見る。韓国勢は、開封に出席の由今日は不在。
 
 行事を終え、さあ、帰ろう。いや、帰らない。長い挨拶の続く式典で時間は大幅に遅れても予定表通り、宝陀寺の古塔に寄る。25M。この高さは、昨年見た「ネプタ」の高さと同じだ。ガイドの少女が懸命に解説するが、通訳がチンプンカンプンで、気の毒だ。いつも思うが、社会主義国中国が観光に寺院を案内するのは何故なのだろう。宗教は阿片ではないのか。お寺に皆お参りしているが仏教徒なのか。イスラム教徒、他、他民族の諸宗教はどなのだろう。
 レストランを変えて昼食。ここでも、宴席の途中、入れ替わり名刺交換と乾杯と写真を写しにやってくる。乾杯が出来ないので、食事に専念。気を許すと、ひどく辛いものを食べてしまう。
 ホテルで、ゆっくりしたけれど、ちゃんと予定通り函谷関(かんこくかん)へ。それも、我々は、高速道路の案内板で知る。高速の左下にいかにもそれらしい建物が見え、バスは谷底近くまで下りて止まる。なんだ、お寺ではないか。ここでもガイドが付くが、私は気もそぞろ。お寺に興味はない。左手に「鶏鳴地」の案内板を見つけるや、一直線に駆け上がる。ウーン、いい景色だ。大きなお寺の向こうに、函谷関の建物も一望に出来る。皆も、ようやくに上がってくる。お堂に収まる像。像の胸の袋に、手渡されたコインを投げ、うまく入ると、鶏の鳴き声がマイクから流れる仕組み。K夫人がうまく投げ入れた。でかしたでかした。
 斉(齊、せい、紀元前1046年 - 紀元前386年)の孟嘗君が西安から逃げる途中、夜明けにならねば開かぬこの関で、部下が、鶏の鳴きまねをして門を開かせたという故事が有名なのだ。但し、ここは、物まねをした場所。肝心の関所へと、駆け下りる。寺を巡っては入れない。一旦入口に戻って、数百メートルを走って。あった。大きな函谷関の楼門だ。皆に教えようと駆け戻ったら、バスでそこへ行く為に、皆が待っていた。皆はご苦労さんでしたと言ってくれるが、いい年をして、独りよがりの行動を取りました。反省してお詫びします。
 
 「函谷関と清少納言
 このタイトルで、ピンと来る人は偉い。函谷関といえば普通、「箱根八里」だ。歌詞に曰く「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず」。の作詞に滝廉太郎が懸賞に応募して作曲した唱歌だ。この程度は、知っている人はいるだろう。しかし、清少納言の百人一首の歌、「よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさかの せきはゆるさじ」、この札を取れる人も、この「とりのそらね」がここ函谷関の先程の故事を踏まえていることをしっているか。「謀られませんよ。逢うことは出来ませんよ」の意味を・・私は知らなかったなー。しかし、清少納言も凄いけど、この歌を読んでデートが出来ぬと悟らねばならない男性も楽ではないね。こんな教養知っていてどうなる。そんな暇があったら、一文でも多く稼げ。それはそうだ。でも、稼いでどうする?稼いでゆとりが出来たら、史跡を訪ね、故事を学びなさい。おあとが、よろしいようで。
 「?国博物館(カクコク)博物館
 函谷関でも時間を取ってしまったので、もう一つのお目当て、「?国博物館」はカットされるかと諦めかけていたが、中国の官僚を見損なってはいけない。夕闇に賑わい始めた市の雑踏をすり抜けて、閉館間際の博物館に滑り込む。例によって、真っ先かけて飛び込んで、整然と、そして美しく展示された出土品や解説を無視して真っ直ぐに最後の部屋「車馬坑」に。BC1100年頃の「?」という聞いた事もない国の皇族の墓。ここで発掘された「馬車」を是非、見たかったのだ。西安の「兵馬俑」発見の少し後に発掘されて、これまた、広大で現在も発掘中の墓。この博物館での展示はほんの一部らしく、体育館ほどの一室は一台の馬車の残骸と、数引きの馬の白骨。もう少し小さな一室には、何層にも分かれた墓。「兵馬俑」のスケールを期待したのは間違っていた。また、兵馬俑と異なり、馬車も馬も復元したものでないので、実物の姿がかえってわからない。
 でも、それが、解った。騎馬民族の渡来まで馬がいなかった日本。「馬車」は馬と一緒に渡来しなかったのか。京の大路を練り歩いたのは牛車。日本の馬車は文明開化まで、消えていたのか。西欧ではアレキサンダー大王、ベン・ハー、を経て、自動車に繋がっていく。中国もいつの頃からか、馬車は実用に供されなくなったのではないか。疑問は限りない。
 最後のお墓に中国の人がヒラヒラとお札を投げ入れる。私もと、10元札を取り出すと、ダメダメと1元札に取り替える。1元は、成田で17円。北京で16円。この1元が、中国入国から出国まで使ったお金の全てだ。いや、ホテルの小さな売店で煙草を買いました。煙草は、パッケージのみならず吸い口まで、箔押しされているので、見本の為購入。宴席には一箱付いていることが多いが、今回は珍しく、吸ったのは我が日本人二人だった。
 興奮してさっさと博物館を出たので、ご婦人方を待つ羽目に。「ご熱心ですね」「だって、あのガイドさん、イケメンでしたもの」そうでしたか。ここは珍しく男性のガイドでした。
 
 19時過ぎ「煙草大廈」とレストランで宴会。個室でないのが不思議だったが、この約10卓の全員が「市長宴請招待」。なんだか解らないが、日本人が二人。この市は北上市と姉妹都市で林檎栽培の技術指導者と日本語講師。講師は、中国古代史の研究もしている由で、早速、先程の馬車坑の墓の話を訊く。「深い墓は貴人。身分が低くなるにつれ、浅い場所に埋葬される。」これが、訊きたかった。
 宴が終わったが、バスはホテルに戻らない。雑踏する人込をかきわけ、「薬局」に寄る。すわ、土産物屋かと、一同身構えるがどうも違う。店主、店長、その親戚等々、次々に紹介され、一人一人と握手して、その度に写真を撮る。薬の説明などなく犇くほど大勢いる若い女店員に見送られて外へ出るが、暫く走ってもう一軒。ビルの暗い階段を三階まで登ってベッドがズラリと並ぶマッサージ店。ここでも、治療を受けるでなく、店主や助手たちが紹介され、握手をして写真を撮る。ようやく、ホテルへ。K社長の推測では、「今回の世話役の商工会議所の立場があるのだろう。」と。

●4月20日
8 時。昨夜、「TVに出演するので正装を」との指示がある。皆は、緊張し、私は、浮かれて、バスに乗り込む。昨日の「百人展」会場へ。昨日を100倍する人の群れがゾロゾロと。見渡して、地下鉄もバスもないのだから、歩くしかない。その中を我がバスは静々と何処までも奥まで入っていく。我々を空港で出迎えたボードがその後いつもフロントに置いてあるが、その威力らしい。「百人展会場」の隣は大広場になっていて、大群衆はそこに集まってくる。正面にこれまた大舞台。背景は大きく引き伸ばされた三門峡ダムの写真。
 その大舞台に案内される。足元の番号で指定された場所は大分後列で、これではTVに写らないだろう。今は、「第十三回三門峡黄河旅遊節開幕式」なのだ。「旅遊節」は市を挙げての「お祭り」で、学校もお休み・・らしい。
 これも、指定された席に戻ると、プログラム、帽子、飲み物がセットにされた袋が配られる。我々の背後は沢山の人々。何人か?阪神戦の観衆には及ばず、西武戦の観衆程度として、一万人弱か。雨が降ったら、この野外でどうするのか?とにかく、昨日のような炎天でなくて良かった。
 プログラムは、これから始まる大音楽会のものだ。少年達の少林寺の演武から始まって、乙女達の楽器演奏、アクロバット、民族歌舞、男女人気歌手の独唱、掛け合い漫才、その他盛り沢山に、計十三種の出し物だが、若者向きで、我々も決して飽きることなく二時間を過ごす。舞台の両袖には学生達が座り、整然と赤・黄・緑・ピンク・ブルー等の旗をとっかえひっかえ、各ステージにあわせて見事な人文字、模様を描いて見せる。この人数は数えた。横に45人が十列。それが、両側だから計900人。舞台では100人が踊れる。
 フィナーレ近く、突然、マイクが切れる。「よくあること・・」という雰囲気ではないが観客も舞台と一体化しているから、じっと待つ。少林寺の幼い小坊主たちが次々に飛び出してきて、見事なトンボを切って見せ、合間を繋ぐ。次に少年達の出番というときに、マイクが繋がった。
 日本の婦人方は、マイクのヴォリュームの大きさに辟易していたが、私は耳が遠くなっているので、大満足で、また、大群衆をバスでかきわけ、昼食会場へ。
 今日で別れの日。昼食後には歌を所望される。k社長は東京で私と打ち合わせる時も、喫茶店でなくカラオケ・ボックスを指定するくらい喉に覚えがある。見事な高音で日本民謡の小曲を披露する。O氏が、歌いこんだ故郷の「秋田音頭」と続く。先方の書家が、手振りも鮮やかに京劇の一節。次に、私・・というところで「書」の用意が出来た。
 両国の書家が、持ち込まれた紙に、これは常に持ち歩いている筆でさらさらと何枚も何枚もかいてゆく。墨汁をたっぷり使うので、紙が破ける時もあるが、気にしない。乾いてから落款をおし、表装をするそうな。どんな単語、文章を書くか?書家は候補をコピーしてポケットに入れてある。「表装」の歴史は明朝、日本では室町の時代から。今では日本の技術が上だと。これは、翌日のバスの中で、O先生から聞いた話。先生は、金石文の専門家。紙以前の文字の書き方など、流石にもう少し勉強してからと、遠慮したが。
 書の交流も終わり、予定は「空相寺」、日中とも律儀にスケジュールをこなす。達磨大師縁の寺へバスを走らせ、なんで、こんな何もないところに大伽藍を建てたのかと疑問を持ちながらまた取って返し、最後のお別れの宴。
 言葉が通じず、努力をして交流をしようとの若さもなくなったが、先方の誠心誠意のもてなしは、充分伝わってきた。御礼の言葉を私も述べる。「本当にありがとうございました」
 通訳氏は曰く「どういたしまして」。あのね、貴方に云ったのではないの。あちらに、「通訳」してもらわないと困るの。
 それでも、S夫人が先方に気に入られ、一人残ってくれといわれたり、中国でも話題の血液型の話で盛り上がったが、明日早いからと早めに打ち上げても22時。北上市の人から教えられた「お土産ならコンビニのお茶が一番です」もコンビニが閉まっていて、次回。

●4月21日
 4時バスが出る。今回の世話役のシャーさんの若夫人が朝食を差し入れてくれる。良い夫婦だった。へまた、永いバス行。しかも、二時間ほど走ったとき、はたと、大きなトラックの群れの真ん中で、大渋滞どころか大停滞に巻き込まれる。その便に乗る為に四時に出発し、その便に乗らないと北京の接続が出来ず、今日中に帰れないのだ。
 まだ、6時。運転手と三門峡市と頻繁な携帯のやり取り。事故は、炎上車が前にあるとのこと。やおら、運転手氏の大奮闘が始まる。路肩を飛ばす。割り込む。すれすれを追い抜く。彼の免許証が汚れても、命を無くしても、とにかくも突っ走った彼のプロ魂に頭が下がった。ようやく、我々の気持ちの幾許かを彼のポケットにねじ込んで、深夜、成田に帰ることが出来ました。

書くのも、読むのも、大変な苦労でしたね。

次回から、写真の勉強を、致しましょう。






Y氏と行く「行き当たりばっ旅!
平成22年
(2012年)
12月 兵庫 竹田城、丹波篠山城
平成23年
(2013年)
3月
奈良
岐阜
大神神社、三輪山参拝登山、甘樫の丘、高取城、
岩村城
5月 滋賀
福井
石川
湖北みずとりステーション
一乗谷城、丸岡城、新田義貞公墓、東尋坊、雄島
山中温泉、安宅の関、安宅住吉神社、橋立町北前船の里、小松城
11月 福島 芭蕉記念館、須賀川城址、「松明あかし」祭り、宇津峰の山城
平成24年
(2014年)
12月 宮城 塩竃中卸市場、塩竃神社、石巻の零羊崎神社、
日和山鹿島御子神社、涌谷神社、涌谷城、涌谷黄金山神社、
平成27年
(2015年)
6月 山形
新潟
高畠、安久津八幡神社、赤湯の烏帽子山八幡宮、
村上の西奈彌羽黒神社、笹川流れ、温海温泉、米子漁港
8月 富山 宇奈月温泉。黒部トロッコ列車、魚津じゃんとこい祭り、
海の駅蜃気楼、新湊・海王丸パーク、北前船の町・岩瀬
平成28年
(2016年)
10月 千葉 勝浦朝市、遠見岬神社、繋船石柱公園、勝浦城址、お万の布さらし
平成29年
(2017年)
3月 栃木 真岡の鹿古墳を訪ねて
4月 栃木 下野の古墳を訪ねて&今市「二宮尊徳記念館」と「船村徹記念館」        
5月 栃木 益子
6月 千葉 加曾利
11月 栃木 さくら市(勝山城跡・今宮神社)
平成30年
(2018年)
2月 栃木 布袋ヶ岡城と織姫神社


Copyright (c)2020 遠藤晶土 All Rights Reserved.